クイズ問題を作ること

170323

クイズの問題を作るのは難しいようで簡単なようでやっぱり難しい。(どっちやねん)

たしかに会話の中によく出てくる「〇〇って知ってる?」というベタなフレーズでさえクイズといえばクイズである。そういう意味ではクイズ問題は誰でもが作ることはできるし、ひょっとしたら生涯ただの1問もクイズを作ったことがない人はいないんじゃないかなとさえ思える。

しかしいざゲームとして使われるクイズ問題を作るとなるとやっぱり話は別になってしまう。数はいくら必要なのか、難易度はどれぐらいに合わせるのか、問題文の長さはどれぐらいなのか、など、チェックするところがいくつもあるからだ。
しかもここでは単なる知識の有無を問われるだけではなく、全然関係ない知識と知識を融合させる力や日本語の総合力でさえ試され必要となってくるのだ。

いくつかのクイズサークルを経験したうえで僕が確信するのは、クイズで最もセンスが滲み出るのは問題制作においてなのである。
作られた問題を聞いて、「上手いなー」と思う人は年齢に関係なく実際に何人もいる。しかしながらその逆で、いくら番組タイトルをいくつも持っている人であっても、「相変わらず下手やなコイツ」と思ってしまう人も実際にいる。そして後者の方が断然多い(笑)
問題制作能力というのは解答者として強い弱いとか、クイズそのものの経験年数にすらほとんど関係がないというのが面白いところだ。だからあくまでも「センス」という曖昧な形の話になってしまう。絵が上手いとか歌が上手いとか、そっち側の話なのかもしれない。
現在のプロ野球には12球団分のレギュラー選手はいるわけだけど、「野球センスのかたまりやなー」と思える選手は数えるほどしかいない。あれと一緒だ。

僕が上手い問題か下手な問題かをチェックする点はいくつかあるんだけど、いちばん気になるものの1つに、「和語的な言葉の使い方」がある。
これは、音読みである熟語を何でもそのまま問題文に上げるのではなく、場合によってちゃんと別の柔らかな日本語に言い方に変えているか、ということだ。

たとえば問題文に「消化」という言葉があるとする。書かれた文字を読めば確実に意味はわかるけど、早押しクイズの場合これを耳で聞くわけなので、解答者はこの「ショウカ」を「昇華」と解釈してしまうかもしれない。「展開」だったら「転回」に、「劇場型の犯罪」だったら「激情型の犯罪」と頭の中で勝手に変換してしまうおそれがあるわけだ。
こんな言葉の組み合わせは星の数ほど例があるわけで、それがあるからこそアンジャッシュのコントは成立する。(なんのこっちゃ)

クイズの経験が浅かったり、問題制作のセンスが乏しい人はここの部分の管理が実に甘い。意識が全く及んでいないといっても過言ではない。
問題文の元となったたとえば辞書なんかを丸写ししてしまうパターンがその最たるものだろう。問題を作ることや用意することに精一杯で、問題を聞く人がどう解釈するか、そんなことにはまだまだ考えが到達しないレベルだということだ。

こういったことを直し、レベルを向上させるには、「小学生相手に出題する」、という意識を持てばいい。
問題の内容や難易度がどうであれ、まず問題文そのものが相手に理解されるかどうかを目指すのだ。「何を聞かれているのかすらわかりません」とは決して言われないようにするということなのだ。

しかしながらこの漢語の扱い、もちろんこれは逆手に取れば、わざと解答者を迷わせて指のスピードに差を生ませるといった高度な引っ掛け問題に利用することはできる。
「~ハッコウするための原因となる酵素で~」などという問題文で、「ハッコウ」が「発酵」なのか「発光」なのかを選ばせることで一瞬の迷いや余計な疑問が頭の中に湧く可能性を考えるのである。

経験者にはわかると思うけど、こういうほんのちょっとした「余計な考え」は、ボタンスピードにものすごい影響を与えてしまったりする。しかも押された後に、「しまった、余計なことを考えた!」って思えてしまうのが情けない。

ところで、クイズ問題のなかでもテレビで出題されるものは、ほかで出題されるものとはちょっと方向性が違ってくる。
テレビ用の商品としてのクイズ問題を作る上で最も難しいテーマの1つが、問題文も正解もどちらも「誰でも知っている」「誰でもわかる」を目指すということである。
もちろんこんな問題ばっかりを納品するわけではないが、この視点は常に持っていないといけないものだ。
難しい問題を作る方が実は簡単で、誰でも解ける問題を作る方が圧倒的に難しいのはクイズ制作者側の意見。クイズに関わったことがない人ほど逆のことを考えてしまうのではないだろうか。
この「誰でもわかるもの」を基本とし、さらにその正解が面白いものだったり、問題文を綺麗するなどの整えは、実は至難の業なのである。

「誰でもわかる」ということを考えるうえで大事なのは「基準を持つこと」なんだけど、この「基準」は往々にして「常識」という言葉で表現される。
しかしながらこの「常識」という奴が意外と厄介なのだ。

そもそも人が言葉を知る順序は学校で教えてもらう内容以外は偶然に左右されるに決まっているのだ。住んでいる場所や家庭環境、友人関係、手にした本、見たテレビ番組などで知識は蓄積されていくわけだけど、体が1つしかない以上、すべてを同時に網羅することは不可能である。だからどうしても知識や情報は偏ってしまうことになる。
だから「常識」と呼ばれているものも、どれも「誰でも知ってるよなー」って根拠なく思い合ってるだけで、本当はそれもたまたまだったりするのかも知れないのだ。

僕の知り合いの知り合いで、東大を卒業して現在某国立大学の教授をしている人がいるんだけど、この人、齢50を超えていて最近まで何とサンマを知らなかった。
「サンマ」といっても明石家さんまさんではない。魚のサンマ。食べるやつ。あの細長いやつだ。
写真や切り身を見て「これが、サンマなの?」というレベルの話ではなく、「サンマって何?」という世界の話なのだ。

この話、ウソでもネタでもなくマジなんだけど、でもこれを聞いたとき、僕はびっくりしたと同時に仕事に対して背筋がちょっと伸びた。
つまり「常識」はどこまでいっても幻であり、自分の基準でその存在を勝手に作り上げているものなのだということが確認できたからだ。

圧倒的大多数が知っていることであっても、必ず誰かは知らないのである。
日本の小学校、中学校を出た日本人であってもジャンケンを知らない人もいるかも知れないのがこの世の中だということである。

となると、この「常識」を基準にした「誰でもわかるクイズ問題」の存在も幻でしかないことになる。
でも現実的に商品としてクイズ問題を作るときには、この方向性は意識しなければいけない。「難度1」または「難度0」(いわゆる「ゼロ問題」)を作るとき、自分の中にある「常識」に照らし合わせて本来は「誰でも解ける問題」を作らねばいけないのだ。

しかし僕はこのサンマ事件があってからはさらに慎重に難度について意識を向けることにはなった。この問題文で使っている言葉や正解は、どこかで自分が勝手に「常識」と決めつけてるんじゃないか、って常に一歩立ち止まるようになった。
もちろん、本来は幻である「常識」を意識することは、答えが見つからない旅に出ているようなものではあるんだけど、でも何も考えずに問題を作るよりは進歩しているはずだ、とは思うようにしている。

などとまあ偉そうに書いてはいるものの、以前のHPに広告を載せていた、僕が問題とキャラクターを担当したアプリ『クイズ道場』は、今まで書いたことを全く無視した構成になっていたりする(笑)

「答えてもらうように」が基本のテレビ番組やゲームの問題などとは違い、この『クイズ道場』では「難問」の部類に入る問題が次から次に出題される。
なぜならばそれがこのゲームのメインのテーマだからだ。
本来、僕も含めたクイズ研の連中は、こういった問題を使ってクイズを遊んでいるわけで、一般の人にもその内容を体験してほしかったのだ。

一般の人が世の中で触れることができるクイズ問題は、いわば打撃投手が投げるボールのようなもので、打てて当然といえるものである。しかしこのアプリではまさに実戦の投手と対決するようなものなので、150キロの速球も飛んでくれば高速スライダーだってやってくる。ちょっと無茶のような感じだけれども、でもその問題を使うことで僕らが知っているクイズゲームの醍醐味を感じられるのだとしたら、それを出すことにこそ意味があると考えたのだ。

このゲーム、制作からもう2年ほど経ったので内容も少し古くなっているだろうけど、まだやってない方はよかったらやってみてちょうだい。
150キロの剛速球はちゃんとバッターボックスで体感してみてほしい。もちろん、あまりのボールの速さにバットがかすりもしないのでその結果クイズそのものが嫌いになるかも知れないけど。(ダメじゃん)

ではまた来週の木曜日。