人と話すこと
161208
「News」にて報告の通り、今年の12月23日に京都でトークライブ(+クイズライブ)を開催することになりました。
トークライブは久しぶりだなー。たぶん喋れと言われれば果てしなく喋ってしまうのでどこまで自制できるかそれだけが心配(笑) 『QUIZ JAPAN』のトークライブでは隣に座っている大門編集長がいい塩梅で僕をコントロールしてくれたので事なきを得たんだけど今回はそういう存在がいないので大変そう。
まあでも「人と話すこと」は嫌いではないので、当日はたくさんの人とコミュニケーションを取りたいと思っています。
今回はこの「人と話すこと」について、つらつら考えて書いてみましょう。
子供のころからあまり積極的に人付き合いをするわけでもなかったけれど周りに人がいないと寂しいと思う性格でもなかった。ただこれまで幸運なことに性別・年齢に関わらずそばにいて気持ちのいい人がたくさんいたので「人と話すこと」自体を苦手にならずに済んだ。
人と話す、といえば話し上手でなければスムーズに行かないような印象がある。トークライブなどでは僕からのアウトプットが主になってしまうが、本来「人と話すこと」はインプットが主体であると僕は思っている。
ところで僕は家では息子に「とにかく漫画を読め」「たくさん映画を観ろ」とずっと言っている。これは「無駄なこと」や「雑多なこと」を吸収させるためだ。
主人公の目を通して見る世界は、現実世界に生きる自分にとっては全く関係のないものであることの方が圧倒的に多く、そしてそれは無駄に見えたりする。
しかしながらそれらの中にある教訓や本質を理解できたときや、わずかであっても実生活で応用できることを発見したなら、その瞬間にそれは一気に有益になる。
考えてみれば受験勉強だってそうだ。もし、自分の目指す大学の問題が毎年ほとんど決まっていれば、誰もあそこまで頑張ることはないだろう。何が出題されるかわからないからこそ自分の学力を上げて問題が解ける可能性を上げているに過ぎない。
スポーツの練習も同じで、試合で起こりうる状況に対処できる「可能性を上げる」だけなのだ。
そしてクイズ。クイズこそこの図式の真骨頂ではないだろうか。次に出題されるその問題を解くために何万何十万もの問題を解いているわけだから。
結果的に数多の無駄を生んでしまう手法こそが、実は最も確実に成功を収める方法だということがこれらからもわかる。
自分の未来においてどの情報が役に立つとか、誰からの言葉が自分の心の芯になるのか、なんてのはわかるはずもないことだから、自分にとって真に有益な情報を得るにはこのように、いかにより多く、そしてカテゴライズされていない情報、つまり「雑多な情報」に触れるかがカギになってくるはずだ。
しかも1000の情報から1でも自分にとって有益なものを発見すればそれだけでも幸運なことなのに、999の「無駄」でさえも時間差で有益となる可能性を秘めているとも解釈できる以上、そこにあってはもはや無駄は1つもないともいえる。
「人と話すこと」はこの「漫画を読む」や「映画を観る」に等しいものであると僕は考えていたりする。現実にいない主人公から見ている世界からでも、自分以外の人が経験した人生からでも、どちらからも何かしらは吸収できる「雑多な」情報があるからだ。
僕が最初に「人と話すこと」は基本的にはインプットが主体になると言ったのはこれが所以である。
僕のバイブルの1つであるD・カーネギーの『人を動かす』にも、「話し上手になりたければ、聞き上手になることだ。」というくだりがある。
そして、聞き上手であるということは相手の話に興味を持つのが基本だ、とカーネギーは記している。
そこから僕は、話し上手になるということは、相手が持つ情報を自分的に咀嚼して取り込むチャンスが増えることでもあると解釈し、そしてそれは勉強の1つの形態でもあって最終的に自分の血となり肉となる可能性を生むものだということを経験した。
しかしここで1つだけ問題がある。
たとえ子供であっても、相手が誰であろうが、基本的に人と話すことは勉強になるわけだが、それがどれほどの濃密さになるかは、情報を受け入れる側、つまり僕の頭の柔軟性によるところに左右されるということだ。
ということは、人と話しているときに勉強に感じないようになってきたらそれはすなわち自分の頭の柔軟性が乏しくなってきたということに他ならない。
こうなったらいろんな意味で危機を感じないといけなくなる。「人と話すこと」は自分自身の能力のチェックにも役立つのだ。
「人と話すこと」を僕はこんな風に捉えている。
トークライブなどに来てくれるファンの方の中には「ようやく実物を見た!」という人もいるかも知れないし、それはその方にとってすごいチャンスであるかも知れないけど、でも実は僕から見てもそんなあなたと邂逅することはこの上ないチャンスで、喜ばしいこと、と思っていたりするのだ。
というわけで当日参加されるみなさん。どうぞよろしく。
ではまた来週の木曜日。