第13チェックポイント メンフィス (1989年9月25日)
170925
次の目的地はブルースの都、エルビス・プレスリーを生んだ街、テネシー州はメンフィスである。
チムニーロックからデンバーへ、そしてデンバーからメンフィスへと移動することになった。
もうこの頃になると近ツリの加藤さんは自分たちだけで海外へ行っても大丈夫なようにと空港のカウンターにある街のパンフレットを集めさせたり空港内の案内の説明をしてくれたりなど、様々な海外旅行術を教えてくれるようになった。
これはとても有意義なことだった。ともすれば受動的なことに終始するウルトラツアーの「旅行」という部分がほんの僅かながら能動的なものに変化するからだ。挑戦者の人数が多い時には安全管理の点からこのような試みは無理なのだが、少人数になったら今後もどんどんやるべきだと思った。いつかは必ず役に立つ経験だからだ。
僕らがメンフィスに向かう前に再びデンバーで1泊した時、日付はすでに9月24日になっていた。
ニューヨーク入りが27日の予定なのでもう残り3泊しかない。これまでのペースから考えても、また1時間半という放送枠をから考えても(※1)、もうチェックポイントはあと1つであろうと僕は踏んでいた。まだ5人も残っているが次はいきなり準決勝(※2)にするというスタッフの腹づもりなんだろうなと思っていた。
ツアーに挑戦者として参加している僕らにとって何が最も不安かというと、クイズの形式がわからないということでもなければ何人落ちるかということでもない。いつクイズが行なわれるか、なのである。
例年のウルトラでも多分そうだったのだろうが、『第13回』に限っては例のグアムの奇襲がまだ尾を引いていて僕らを余計不安にさせていた。
なのでこのデンバーでの1泊は本当に気分が楽なものだった。それはまさか3日で2つもクイズはやらないだろうという予測からだ。
しかし後から考えるとそれは大マヌケな根拠でしかなかった。
悲劇はいきなりやって来た。
翌25日、早朝の4時15分にデンバーを出発することになった。そしてメンフィスへ着いてホッと一息入れる間もなく午後4時15分にクイズが行なわれるということが発表になったのである。
「そんなアホな。いきなり寝不足のまま準決勝か?」
そう、翌日にクイズがないということで安心し切っていた僕は(※3)デンバーの最終夜にほとんど寝てなかったのである。僕に付き合わされていた同室の木村も半ば徹夜の状態だった。(※4)
早朝のデンバー空港にて。
「ボルチモア4」ならぬ「メンフィス5」である。
メンフィスでのクイズ会場は滞在先に近いピーボディホテルという所だった。
ここには全米中から観光客がやって来る。お目当てはこのホテルが飼っている5羽のアヒルである。
このアヒルたち、昼間は1階のロビーにある噴水で遊んでいるのだが夕方になると屋上にある自分たちの小屋へと自力で帰って行くのだ。もちろん自分たちでエレベーターに乗って。
その動きがとてもユーモラスでそれを見に多くの人がやって来るのである。ちょうど日本でカルガモの親子の引っ越しが人気なのと同じである。
そんなアヒルたちがこのホテルにいることなど全く知らない僕らは一足先に屋上に連れて行かれた。そこには予想通り早押しテーブルが5台置かれていた。
ようやく準決勝か。準決勝は「通せんぼクイズ」やろから、もう1つあそこに通過席が置かれてる…はずやな。あ、あれ?通過席がないやん!
それに何や、あの「FINISH」と書かれたゴールらしきものは!そしてそれに続く赤絨毯は!
今年の準決勝は通せんぼクイズやないんか…。
ただでさえ思い切り気合いが入っているところに不安が混ざり僕は半ばパニック状態になってしまった。
わけがわからないでいる僕らにトメさんが声を掛けてくれた。
「いいか、ここが正念場だ。ここを抜けると気分的に楽になるからな。次はいよいよ準決勝だぞ。」
うんうん、そうや、ここが正念場や。ここを抜けたら準決勝…。ん?準決勝?ここが準決勝やないの?
僕は何かキツネにつままれた感じになった。
ほらよくあるでしょう。自分は北へ進んでいるつもりだったのにそれが「そっちは南だよ」と言われた後のあの気持ち悪さ。それに近い状況だった。
それまでの極度に張られていた緊張の糸が切れた。そしてその反動から来るリラックスが全てだった。この瞬間に僕は精神的にものすごく楽になり、それがクイズにとても大きな意味を持って来るのである。
収録開始。いきなりトメさんと目が合った。何やらニコニコしている。
「そうかー、準決勝やと思て、オレこんなマヌケな恰好(白シャツにネクタイ)をしてんのか。あーまたトメさんにバカにされるなー。」
ゲーム前のインタビューが始まる。期待を裏切ることなくトメさんは僕をバカにした。
クイズに先立ちいつも通りルールの説明が始まった。
どうやらアヒルを使ってタイムレースをやるようだ。タイムレースということは基本的にはタダの早押しである。
「よし!」
気分的に信じられないぐらい楽になっていた僕はここで大博打を打つことにした。
その頃といえばクイーンズタウンから続いていた大スランプをまだまだ引きずっていた。早押しクイズに自信をなくしていた時で、そんな時にマトモに向き合ってもミスを連発して自滅してしまう。
今回のルールでは確実なクイズをしなければいけない。RUQSでやっているような超早押しというスタイルではなく、むしろそれとは対極的な「100%正解クイズ」を実践しなければならなかったのである。そしてそれをやってやろうと思ったのだ。
これは自分の頭の中でちゃんと答を確認してから押すというものだ。(※5)
この作戦は同時に自分の力をわざと抑えて敵の力量を知ることができるという副産物を生んでくれた。
ただし自分を抑えるといっても得点が最下位になってしまっては元も子もない。しかしそれは裏を返せば最下位にさえならなければいいとも言える。
それには全員を相手にするのではなく誰か1人をターゲットとして、そいつより点数が常に上という状態を作っておけばいいのだ。
もし終盤、万が一逆転されたら、その時はスタイルを「攻め」に戻せばいいだけだ。
ターゲットはキャリアの浅い木村か、早押しに弱い田川さんにするかどちらか迷った。結局は隣に座っていてチェックしやすい木村をターゲットにすることにした。
(もし田川さんの隣に座っていたら僕は一体どうなっていただろう。これだから勝負は面白い)
アヒルが1階の噴水をスタートして屋上のゴールラインを横切るまでの時間は約4分半(※6)。長くもなく短くもない、タイムレースにはピッタリの時間である。
慎重に慎重に。僕はずっとそれだけを自分に言い聞かせていた。自分と木村の点数だけを頭の中でカウントしながらクイズを進めて行くんだ(※7)。何度も何度も確認した。
アヒルが屋上に姿を見せてからは1問正解2ポイントのボーナスタイムとなる。その時までには何とか3点差は欲しいなとは考えていた。1点差や2点差ではボーナスタイムに木村に1問正解されるだけでヤバくなってしまうからである。
さあいよいよタイムレースのスタートだ!
これ、現地で売っていた絵葉書。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
※1 また1時間半という放送枠をから考えても
この段階ではまだ5週目の放送枠は1時間半だった。これが2時間に変更になるのは数日後のことである。
※2 まだ5人も残っているが次はいきなり準決勝
『第6回』の準決勝がこの状態。
※3 翌日にクイズがないということで安心し切っていた僕は
単なるアホやん。
※4 僕に付き合わされていた同室の木村も半ば徹夜の状態だった
木村スマン!
※5 自分の頭の中でちゃんと答を確認してから押すというものだ
つまり僕のクイズはそんな方法ではなかったのだ。確認してから押すのではなく、押してから確認するのだった。だから誤答が増えるのである。詳しくは『理論篇』のクイズ理論の部分を参照のほど。
※6 ゴールラインを横切るまでの時間は約4分半
放送では3分に編集されている。
※7 自分と木村の点数だけを頭の中でカウントしながらクイズを進めて行くんだ
いつもは誰が何点を取っているのかの表示を見ながらクイズを進めて行くのだが、この回に限ってはクローズでゲームが進んで行った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
永田さんと秋利は好調な滑り出しを見せた。
「遅く押す」ということに少々戸惑っていた僕もいくつか正解を出していた。
さあアヒルが上がってきた。ここからが勝負である。
ここからはそれまで以上に木村の動きをチェックしなければいけない。今のところ僕のポイントは4、木村は1である。怖いぐらいに予定通りだ。
屋上に現れたアヒルは普段と違う景色に驚いたのか、思いがけない方向にうろちょろしてしまい、真っ直ぐ小屋へ向かわなかった。
そんなハプニングもあって多分クイズの時間は長くなったのだが、彼らも最後は何とかゴールインした。
タイムレースは終了した。
ボーナスタイムで僕は1問も取れなかったが木村も沈黙していたので僕が3ポイントリードしている状態はキープされたままだった。
「よし、抜けた!」
僕は心の中で思った。メンフィスの通過はこの時点で決定した。
通過順位が発表される。
「それではボルチモアに行ける4人を発表します。まずはトップ抜け、…富士通!よくやった田川君!」
何?ター兄ぃがトップ?
キーウィと呼ばれて26年。考えすぎのコンピューターのあのター兄ぃが早押しでトップ通過を果たすとは。それも9ポイントも獲得して、である。
正直この時は驚いたが、後になって冷静に考えてみたら田川さんといったら東大クイズ研の創立メンバーの1人である。タダ者ではないのだ。
次いで8ポイントの永田さん、3位は6ポイントの秋利だった。
最下位争いは僕と木村の2人となった。(※8)
僕は結局4ポイントで木村を制し(※9)、前回のチムニーロックに続きラス抜けとなった。
東大1年生。弱冠19歳の木村が落ちた。
クイズのセンスは抜群の東大クイズ研の将来有望株だ。
「(木村の敗因は)経験不足でしょう。」
と東大の先輩の田川さんはインタビューで答えた。それは獅子が子供を千尋の谷に落とすがごとくの激励の言葉だった。
さあこの4人である。
いよいよ今度こそ紛れもない準決勝、そして「通せんぼクイズ」である。
田川憲治、永田喜彰、秋利美紀雄(※10)。敵は一癖も二癖もある連中ばかりでシャレにならないほどの状況である。しかし同時に相手にとって不足は全くない。
「馬脚を現しつつある長戸君。」
と最後までトメさんにバカにされてしまったが、そんな言葉は聞き流し僕はすでに頭の中で次のクイズの作戦を練り始めていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
※8 最下位争いは僕と木村の2人となった
テレビ的にはどっちが勝ったか負けたかわからないという表情が欲しいのかなと思った僕は、最後2人になったときに急に神妙な顔をした。しかしよく見ると、さっさと勝ち抜いて立ち上がるつもりでハットの紐を下まで緩めているのがわかる。勝つのわかってるの、バレてるやん(笑)
こういうのを全部わかった上でもう一度さっきの神妙な顔を見返すと、芝居が臭くて笑けてくる。
※9 僕は結局4ポイントで木村を制し
放送では僕は3ポイントになっていて、それに対するトメさんのコメントは「わずか3ポイントだぞ。」だったのだけど、実際のコメントは「その差、わずか3ポイントだぞ。」だった。
※10 秋利美紀雄
何年か前に「美紀雄」が「美記雄」に変わっていた。詳しくは本人に。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
『クイズは創造力 理論篇』の元になっているものの1つである、ウルトラツアー中に書いていた本物の日記は、実はここ、メンフィスのゲーム前で終わっている。
それは何故か。「安心した」からだ。
後にウルトラのツアーに臨もうとしていた能勢にも大西さんにも僕は毎日の日記の必要性をアドバイスした。これは帰国してからの回想録執筆のためということでもあったが、最大の理由は「精神の安定を図るため」なのである。
ウルトラのツアーはスタッフ的には体力的に過酷なものだが、挑戦者的には精神的に半端ないほど過酷なものだ。
旅の途中では必ず精神が参ってしまうし、不満や鬱憤は知らず知らずのうちに溜まってくる。そしてそれはいつしか表に現れて体に変調をきたしたり、表情がおかしくなってしまうことがあるのである。
それではいけないのだ。体力は管理しやすいが、管理の難しい精神面は意図的にある一定ラインをキープし続ける必要がある。
そしてその手段の1つとしての日記なのである。
回想録をまとめたくなければ当然日記というスタイルでなくても良い。真っ白いノートに自分が思ってる不満などを殴り書きするのも悪くない。とにかく心の中にある面倒臭いものを毎日外に出す必要があるのだ。
メンフィスのゲーム直前にトメさんが僕らに向かって言った、「ここを抜けると気分的に楽になるからな。」は至言なのである。何年もの経験からスタッフが挑戦者のメンタルの変化を正しく把握している証左でもある。挑戦者はそういう相手とも戦っていたのだ。
優勝は楽勝と思っていた僕だったが、「大スランプ」を感じていた様子から実際は想像以上にプレッシャーに潰されかけていたようだ。そのプレッシャーは日記だけでは発散できなかったようである。もちろん日記がなければもっとひどい状態だったのだけど。
トメさんの言う通りメンフィスを抜け、準決勝「通せんぼクイズ」、決勝「10ポイント」というのが明確に見えた時、僕の心は解放された。
同時に日記はその役目の一つを終えたのである。
そしてその段階で僕はある意味普段の自分にようやく戻れたのだった。
放送を見ていたら準決勝の途中から急に強くなったように思えるが、本来はあんな感じでクイズをやっていたのである。
というわけで、次はいよいよボルチモア篇。27日の夜に。
これはプレスリーの生家の前での記念撮影。
僕は行った記憶がないのは部屋でゴロゴロしていたせいか?