クイズの楽しみ方の1つの形 つづき
180726
ここ1、2年で一般の人がクイズを楽しむその方法にもようやく新たなスタイルが出てきたように思う。
すなわち、「観客」という立場である。
クイズに「出る側」とは完全に分離された、スポーツ観戦のようにそれを「見て楽しむ側」だ。しかもそのスタイルがメジャーになりつつある。
僕はこういう「文化」が広まるのをずっと心待ちにしていた。
自分はクイズができないとか、強くないけど、でも見る目は肥えているしクイズの面白さは理解している、という層がいればいるほどいい。その方が文化としてのクイズがさらに幅広く奥深くなると思うからだ。
昔、何かの仕事の打ち上げで飲んだ時、同席していた某大新聞様の女性記者様に面と向かって「クイズなんか文化じゃない」と言い切られたことがある。当時僕はまだ26歳。場が場だったので論争をすることもできず、むちゃくちゃ悔しい思いをしたことがあった。
あの夜からずっと僕は絶対にクイズを1つのわかりやすい文化にしてやる、と誓ったのだった(笑) 個人で本を出すぐらいではダメなんだ、一般の人も巻き込んで普通に語られるようにならないといけないと思った。
「クイズやってるんですか?」の質問に、奇異な感じが内包されているうちはダメで、あなたはその趣味を道を選んだのですか、という自然な意味合いにならないといけないわけだ。
ってこの話は書いていてだんだんムカついてきたのでやめよう(笑) ひょっとしたらこの話は初めてするのではないかな。それぐらい本気で腹立ったのだ
あのクソババア、今ごろどこでどうしているのやら。
話は戻って。
たしかにそれまででも「見学」の延長線上での「観客」がいるクイズ大会はあったし、観客が分離している形のイベントもあった。しかし結果的に客がクイズサイドの人間だけだったり一般の人なら数人しかいなかったりとなっていた。
観るために特化した施設で開催され、適切な入場料を取り、ある程度以上の規模の客数を集めて、エンタテインメントとしてのクイズを提示できたのは2015年年末に開催した『マンオブシニア』が最初だったと自負している。
あの夜、あの場所に行かれた方はわかると思うが、あれが僕が夢見ている「クイズ」の1つの形なのである。クイズはスポーツ観戦と同等のものになり得るのだ。
ただこういうのはまだまだ稀な例であって常に成立するわけではない。さまざまな条件が揃わないといけないからだ。となると、やはり一般の人々が楽しむクイズというのはどうしても従来のように「体験型」ということになる。実際に自分が解答者の側に回ってクイズそのものを感じるというやり方だ。80年代の大学のクイズサークル誕生以来、そして90年代の草クイズ大会創設以来のスタイルである。
僕がよくこのコラムでも書いている「SODALITE」のような、サークルでも大会でもない、入場料を払えば本格的なクイズに参加できる小屋もそれに含まれる。
だから基本的には現代であってもまだまだクイズは参加するもの、ということになっている。もちろんそれを目指してくる人も多い。
なので今回の提案もそういった人へのものとなっている。
ちなみに今回の話は僕が10代のころからずっと考えていることで、ある種僕が絡んできた80年代のRUQS(立命館大学クイズソサエティー)や主宰する「東京クイズ倶楽部」「上方クイズ倶楽部」の芯となっている部分でもある。
クイズを楽しむうえで僕が常に参加者に持って欲しいと思う感覚は、「自分が楽しもうと思うと同時に、周囲の人間も楽しませよう」というものである。
「楽しませよう」と思うのがハードルが高いならせめて「不快に思われることはしないでおこう」というものだ。
なんてことはない。一般社会におけるマナーと同じなのである。
しかしクイズではどうしてもこういったマナーに関して疎くなってしまう人が出て来る。
実はそれは仕方ないことだったりする。クイズを楽しむ方向には常にこの「疎くなる」という可能性が待ち構えているからだ。
たとえば「SODALITE」におけるビギナーの人について考えてみよう。
僕のクラスは「ビギナー」といっても、「クイズを始めたばかりでほとんど経験がない」という人を指してはいない。そんな基準は曖昧で意味がない。あくまでも自分がビギナーだと思ったらビギナーでいいのである。
本当に「始めたばっかり」という人だけでやりたい人は「スターター」というのがあるからそちらのクラスでやればいいのだ。僕は担当してないけど。
僕のビギナークラスには、比較的最近にクイズを始めた人や、まだ「スタンダード」クラスの参加には自信が持てないとか、ビギナークラスの雰囲気が好き、とか何でもいいけどビギナークラスでのクイズがやりたいという人が集まっている。
で、ここで面白いというか、当然の現象が起こって来る。
たとえビギナークラスの人であっても、数ヵ月ボタンに触れていて、クイズに慣れて来ると勝手に「強くなってしまう」のである(笑)
そして強くなる過程で必ず思うことがある。
それは「もう1問」とか「次はもっと」とかいう感覚だ。
初参加の時、1問だけ正解して終了したとする。そうなると、次はせめて2問取りたい、と思ってしまう。あるとき総合で4位になった。ならば次は3位には入りたいと思ってしまう。
こんな感覚だ。
これは間違ってはいない。むしろ自然なことだ。
そしてこれは僕がずっと言っている、クイズを楽しむためには強くなること、にも合致している感覚でもある。僕が創ったRUQSのスローガンだった「楽しみながら強くなる」も同じ方向性を持っている。
しかしこの感覚には落とし穴がある。
楽しもうという気持ちが強くなってしまうと、どうしても注意が自分の方だけに向いてしまいがちになるのだ。
周りを見る余裕がなくなってしまうというか、クイズ対自分というものに、ついなってしまうのである。
これは悪いことではない。悪いことではないけど、でもそういうときほど(クイズの楽しさがわかってきたときほど)、逆に周囲に気を配ることをして欲しいと思う。
これはもっともっと強くなって、完全に「見られる側」「目指される側」に回った時の「行動の制約」につながるので、自分がクイズ王を目指している人ならある意味練習にもなる。(まあこれはもっともっと先の話として考えてもいいんだけどね)
さて、僕が「楽しむ(=強くなる)」ために「周りに気を遣う」と考える根本には、人は必ず人に育てられる、という原則を信じているというのがある。
人間関係には支え合うだけでなく刺激を相互に交換するという形もある。いずれにしても人間の成長には人間から受けるものが大きい。
クイズの活動もそうである。仲間にしてもサークルにしても、お互いにプラスが交換できて初めて充実したものとなり得る。
何か具体的なものとしてイメージを表現できないかなと考えていたら、よく消防士や軍隊のトレーニングでみられる「2人で2mほどの壁を越える」という、あの行動にたどりついた。
どういうことかというと、2人で壁に向かい、まず組体操のように1人がもう1人の両肩の上に立って壁に手を掛け、登る。そしてその後に上にいる1人がまだ下にいるパートナーの手を持ち引っ張り上げる、というものだ。
これは昨年再放送された『第14回アメリカ横断ウルトラクイズ』のチェックポイント「エリー」でもあったからウルトラファンにはおなじみだろう。このときは残っている6人の挑戦者に「みんなで協力して6mの壁を登る」というミッションが下されたのだが、原理は同じだ。
僕は例として「2人で壁を登る」とは書いたが、この「2人」はあくまでもシンボル的なものでクイズにおける現場では「数人」と「集団」の場合がほとんどとなる。
「数人」というのは、かつてこのコラムでも書いた、自分のライバルやカウンターパートとなる存在のことだ。
どんな人との組み合わせであっても、同じペースでクイズに強くなることは絶対にないので、ある時期は自分が、またある時期は他者が前を走ってそれぞれで後ろを刺激することになる。そのときにこの「壁を登る」感覚が必要となる。さまざまな結果を出すことでプラスの刺激を与え合うのだ。
(ただし、その距離があまりに離れてしまうと、それはもうお互いの役割が終わったということで、また別のパートナーを探すのである。ちょっと非情っぽいけどね)
そしてもう1つ、「集団」の場合である。
どちらかといえば僕はこっちの方が大事と思っている。なぜならばライバルは基本、お互いに知っている者同士で考え方のクセや人としての欠点もわかっていたりするが、集団となるとサークル活動か大会か小屋のいずれでも発生し自分が参加者の全てを把握し切ることはできていないからだ。
こういう場面ではどうしても「楽しむ」には制限がかかってしまうし、むしろ制限をかけるべきと僕は考えている。社会的なマナーと同じだから。
クイズはあくまでも個人の趣味であるので自分が楽しむことが第一であり自分の満足感が優先されるべき、という考え方もあるしそれは理解できる。
しかしながら、スマホやゲーセンのゲームクイズと違って生身の人間と一緒にするクイズの場合は、対戦相手や出題者など自分自身以外の人間がいてこそなのだから、ここをもっと意識、尊重するべきではないだろうか。
ビギナーの人がどんどん強くなる、という例を紐解くまでもなく、クイズというのは実力の伸びが「機会の数」に比例する部分がある。やり始めての時期は時に顕著だ。
だからこそ、自分がどこに行っても歓迎されたり、クローズドの集まりにいかに多く呼ばれるかがポイントになってくるのだ。
僕は24歳まではずっとそれを考えていた。人の声で出題され、生身の人間と対戦する「生きたクイズ」を、どうしたらより多く経験できるのか、そればっかりを考えていた。
それは強くなることへの手っ取り早い方法の1つであると信じて疑わなかったし、後から振り返ってそれは間違いなく真実だった。
そして僕は誰よりもクイズを楽しんだ1人となったのである。
ではまた来週の木曜日。