ジンクス

171005

クイズに限らず勝負事においてはジンクスというものがついて回る。
赤い服を着ている時は勝てるとか、朝ごはんにカレーを食べると負けない、といった類のものだ。

ジンクスは、気にする人もいれば全く気にしない人もいる。では、クイズ的にはどう扱うのがいいのだろうか。長戸流の考え方を紹介してみよう。

そういやこの前のトークライブでもそういう質問があったな。「ジンクスは信じるべきか信じないべきか、どう思いますか?」みたいなのが。
彼を始め、ひょっとしたらそういうことで迷ってる人は少なくないのかも知れない。
ジンクスは信じるものなのか、信じてはいけないものなのか。たしかに難しい。

じゃあどっちがいいのか、と考える前に、実はちょっと立ち止まって先に考えないといけないことがある。
それは、「二択を疑う」ということだ。

たとえば今回の「ジンクスを信じるか信じないか」という場合は一見、二択として成立してそうな感じではある。でも本当はそうじゃない。

普段の会話などに出てくる表現もそうだ。二択としては全く成立していない「二択のようなもの」が頻繁に登場する。

僕がよく例に挙げる、昔もらったファンレターによくあった、「長戸さんは、美人だけど性格の悪い女の子と、ブスだけど性格のいい女の子はどっちが好きですか?」みたいな質問がその代表だ。

この質問を純粋にクイズの二択問題とすれば答は簡単で、どちらかを答えればいいんだけど、このような質問の背景を考えると、内容は絶対に二択ではないことがわかる。
すなわち、「私は後者なんですが、嫌いになりませんよね?」というちょっとした願望が入ったお伺いなのである。

まあそう書いてくる中学生の気持ちもわからんものではない。だから僕はこういう手の質問には「うーん、やっぱり性格がいい方がいいよね」って返事を書いていた。でも本当の答は決してそこにはない。だって僕が好きな女の子は「美人で性格のいい子」に決まってるからだ。そんなの当たり前でしょ。

つまりこの場合、質問そのものは一択で、本当の答は選択肢外にあった、という凄まじいものなのである。どこにも二択の要素がないのだ。

僕はオムライスや焼きそばやコロッケが好きなんだけど、女の子に「私とコロッケのどっちが好きなの!」とか言われたら答に窮してしまっていただろうと思う。びっくりして。
幸いにして人生でそんな子には出会わなかったけど、もしそんなこと言うメンドクサイ子がいたらたぶん「コロッケです」って即答してただろうな。全然関係のない話だな(笑)

このように世の中には二択と思っていたものであっても、実は二択でなかったり、答があるようでなかったりするものが少なくないのである。

またこの「二択のようなもの」は、勝手に自分に制限を加えて勝手に自分を追い込んでしまう悪い性質もある。

今回のジンクスの話がまさにそうで、この場合、頭っからジンクスは「信じるもの」と「信じないもの」の二択にしてしまっている。そこに答がないにもかかわらず。
だから思考が展開しないのである。思考が展開しないのは自分に勝手に制限を加えて追い込んでいるからだ。

ところで、勝負事ではメンタルの動きや揺れが結果に非常に大きな作用を及ぼす、ということは僕はずっと言っている。クイズは単なる知識の集約と披露のゲームではない、という論拠の1つだ。

そのメンタルの強化のためならなんでも利用してやろう、という意識がまず必要で、ジンクスもそのためのアイテムの1つに過ぎないのである。

しかもジンクスはメンタルに確実に影響を及ぼす、かなり重要なアイテムであることは間違いないので、少なくとも勝負事としてのクイズにおいてはジンクスの有用性の意識は、僕はむしろ持つべきだ、とさえ思う。

僕はウルトラクイズのツアーで当時のガールフレンドの写真を常に持ってクイズに挑んでいたが、それはその方向性の1つなのである。

「何らかの行動→勝ち」が連続すると、その「何らかの行動」が始まった段階で「勝ち」が意識できてリラックスできたり、運を呼び込める力を自分の内部に発生させることもできる。これがジンクスの最大の効果だ。
しかも、もしその「何らかの行動」を敵が知っていたとしたら、アクションを起こすだけで相手に通常以上の威圧感も与えられる。プロ野球の監督がやりたがる、「勝ちパターンの継投」がこれにあたる。
ジンクス肯定派の意見はここを土台としている。

しかし同時にジンクスはメンタルを揺さぶる面倒なものでもある。

例えばハンカチを左手に握って早押しクイズをやってたら勝ち続けられた、ということがあったとしてそれをジンクスと考えた場合、何らかの理由でそのハンカチを手にすることができなくなった途端、急に不安になってしまったり、ヤバイな、などと思ってしまったりする、といったことだ。

でもこれは自分が勝手に生み出したメンタルの揺れであり、他の誰が起こしたものではない。自分で勝手に揺れて自分で勝手に負けの方向へと進んでいるのである。
ジンクス否定派が言うことの主たる根拠はここにある。

このようにジンクスにはプラスとマイナス両方の側面がある。だからこそ人は「迷う」。
思考力が上がってくると、「迷う」=「設問がおかしい」という単純なことに気付くわけだけど、慣れてないとどうしてもその穴に落ちてしまう。

さて、肯定派と否定派の2つの根拠を踏まえた上での僕のジンクスの扱い方は、「意識して意識しない」、「守るべきであり守るべきでない」だ。
つまり、自分のメンタルが強化される状況ならジンクスを信じ、そのジンクスが破れたり途切れたりしたらスパッと忘れる、とすればいいのだ。

何度もいうが、最優先はメンタルの強化と安定なので、そのためにジンクスを「利用する」のだ。決してジンクスそのものが主になり、メンタルが従になってはいけないのである。ジンクスによってメンタルがマイナスの方向へ引っ張られそうになったら、「さっさと回避する」が正しい使い方なのだ。

これは星占いなどと同じである。
あくまでも生活のプラスアルファとして星占いを利用するならいいが、星占いが生活の中心になってはいけない。

星占いなんて絶対に信じない、という人がたまにいる。僕はそれを聞いていつも、なーに意識してんだよ、と思う。

本当に意味がないと思うならそこまで気にしないだろうに。むしろ気にしてしまう自分がいるから自分に言い聞かせる意味でも「私は信用しない!」って宣言してるんだろうな、と僕は思う。

星占いには具体的な根拠がないから、ハナっから全面的に信用しなくてもいい。
しかしながら、もしその占い結果に「いいこと」が書いてあったら単純に喜べばいいわけだし、「悪いこと」が書いてあったらその日の生活を少しだけ慎重にすればいいだけなのだ。
実はそれだけで星占いはとても有用であると言えるのである。

星占いに付随しがちな「ラッキーアイテム」の類は占い本体よりももっと根拠がないものだ。ほとんど思いつきで書いてるんだろうな、と僕なんかは思う。それでもランチの店選びやメニュー選び、服のコーディネートのきっかけなどになるとすれば、やはり有用性はあるのである。

全然関係のないどうでもいい話なんだけど、そういや以前、テレビの星占いで「獅子座の人は今日は何をやってもダメ」みたいな日があった。その時のラッキーアイテムとアドバイスが「トマトを食べればトラブルを回避できます」で、「逃げ場ないやん」と大笑いしたことがあった。

まあこれも爆笑した分だけハッピーをもらったと考えるべきだし、しかもこうやってコラムのネタにもなったことで十分成仏している。
やっぱりこの世に起こる出来事は解釈次第でどうにでもなるし、どちらかといえばハッピーなことの方が多いのだ。

ジンクスと星占いは、信じる信じないの二択にするものではない。使い方次第で強い味方にもなれば足を引っ張る存在にもなる、だからこそその両方を手に入れればいいのだ、メンタルという基準から考えると一択なのである。

と、僕に質問してきた彼にこの場を借りて再び返事をしておく。

ではまた来週の木曜日。