第10チェックポイント ロサンゼルス (1989年9月20日)
170920
来た来た来た来た!
とうとう来たアメリカ西海岸!
やっとの思いでメインランドに上陸だ!
到着時刻は現地時間で9月19日17時8分。(※1)
たった20日足らずだというのに無茶苦茶長い旅をして来たような気がする。
グアムの夜にワイワイ騒いでいたあの「戦友」たちも今ではもう8人になってしまった。だがしかし、これからが本番なのである。やっと今から「アメリカ横断」と呼べるようになるのだ。「この日、この場所からウルトラの新しい時代が始まる」のである。
LAX(ロサンゼルス国際空港)で僕を迎えてくれたのは、カリフォルニアの底抜けに明るい太陽や甘い風ではなく、何かある種の懐かしさだった。南米旅行の出発地も最終地もここLAXだったからだ。
離着陸を案内する巨大なボード、待ち合わせ用の長椅子、カフェテラス、ポストオフィス、当たり前なのだが何も変わっていない。
僕が初めて片言のスペイン語とボディランゲージで座席を取るために何時間も粘ったエクアトリアーナ(エクアドルの航空会社)や、帰国の際に横柄な態度を取る担当者と英語でケンカした大韓航空のチケットカウンターなんかも変わらずにある。
「まだ1ヶ月半ぐらいしか経ってないねんな…」
奇跡的な帰国にドーム予選、入院、ジャンケン、連日のクイズ、実にいろんなことがあった。
LAXの雰囲気は僕の頭の中にあった様々な出来事をリアルに蘇らせ、ずっと夢見心地でいる僕を揺り起こしている、そんな感じだった。
ロサンゼルスでの僕らの宿泊地はハリウッドにあるセオドアホテル。スターたちの手形で知られるチャイニーズシアターの斜め向かい(京都弁でいうところの「はすかい」)にあるホテルだ。ただ、ここは夜になるととんでもないぐらいヤバいところになるらしい。
これはマリリン・モンローの手形とハイヒールの形。
僕らももうここらあたりまで来ると、外へ出たり観光をしたりなどはしなくなっていた。とにかく疲れているので面胴臭い、もとい、面倒臭い(※2)というのが先に立って来るのだ。
だからみんなもっぱら部屋でワイワイやったりベッドでゴロゴロしたりテレビを見たり、というのが常になっていた。
ロサンゼルスで僕らが行ったところといえばストリップぐらいのものだ。これは別に僕は行きたくはなかったんだけど、一緒に行った4人(ター兄ぃ、永田さん、秋利、及川)がどうしてもというのでついて行っただけなのである。(※3)
小屋が場末だったので踊り子はとんでもないのが出て来たが、しかし「ちぎっても錦」(※4)、本場のストリップはやはり強烈だった。
小屋の中では5人が5人ともスタンドプレーに徹していた。入り口で僕らは「解散」して各自好きな位置に席を取ったのである。だが狭く真っ暗な場内をぐるぐる回る照明が時折4人の顔を確認させてくれる。これが僕にはたまらなく愉快だった。(※5)
特に秋利が座った位置は舞台の照明がずっと反射している場所で、奴がステージを凝視している表情が僕からはずっと…(とまあここでやめておこう。このストリップ小屋での顛末は今回のウルトラツアー全体でも最も面白い話なのだが、個人のプライバシーにも関わるのでこのようなHPには載せられないのが残念だ。こういったオモシロヤバい話はまだまだ他にもあるのだが、うーん、残念だ)
まあしかし、ここで何が恥ずかしかったかというと、このストリップ小屋の前でポスターや料金表などを5人で固まって見ていた時に、たまたま近くを通りかかった日本人カップルに「あ、ウルトラクイズ!」と指摘されたことである。すでにこのこのころ、僕らにとってあの大きな名札をつけることは習慣となっていたからだ。
観光をしない分だけ僕らは部屋に集まって話すことが多くなった。こうなるとやたらに飛び交うのが「怪情報」である。
とにかく僕らはスタッフの言動に神経質なぐらいに注意を払っており、何とかして次のクイズを予測しようと躍起になっていた。
その最たるものが「30・ユニフォーム」「31・サバイバル」と書かれたジュラルミンケースの解釈である。
ウルトラクイズのツアーでは機材は全て大型バスで運ばれる。立体パズルのようなその積み込みは今回の放送で初めて明らかになったわけだが、僕らはあれを毎日見ていた。
数百個あるジュラルミンケースにはそれぞれ番号が振ってあり、中身がわかるように名前が書かれていた。そこにあったのが「30・ユニフォーム」「31・サバイバル」だったのだ。
ウルトラクイズでアメリカ西海岸の大都市のチェックポイントといえば、だいたいがゲストを招いてのインスピレーションクイズと相場が決まっている。しかし今回はもうそれはシドニーでやってしまっているのだ。ということはここでは全く別のものが来るということになる。それは何か。そこでこのジュラルミンケースがヒントをくれるのである。
「そうや、ここや。ここでスポーツ系のクイズをやるんや!」
秋利と並んで「怪情報」の根源と言われていた僕は自説を強く推した。
「ここはロサンゼルスだけにバスケットボールクイズやて!そうに決まってる!」
しかしもはや誰も僕の説をマトモに取り合わなくなっていた。
明日はクイズである。僕は自分の仮説である明日の「バスケットボールクイズ」に備えて腕立て伏せや腹筋などの軽い運動をしてから眠りについた。
次の日、僕らは市内観光ツアーへと洒落込んだ。とはいってもこれが自分にとって死出の旅になるかも知れないということはみんな知っていた。
チャイニーズシアターやローズボウル、高級住宅地のパサディナを徘徊、もとい、観光したのである。
豪邸をバスで見て回っていると近ツリの若い添乗員の松田君が言った。
「それではもう1軒行ってみましょう。なおここではみなさん、手荷物やスーツケース、全て持ってですね…」
ほら来たー。
ウルトラではクイズの戦いの直後、勝者と敗者は完全に隔離される(※6)。なのでクイズが始まる前には自分の荷物は全て持って行かねばならないのだ。
だから添乗員やスタッフの「全て持って」という言葉は、僕らには「ここでクイズだよ」と聞こえるのである。
何やら不気味な家の前でクイズは行なわれることになった。
トメさんは「これはバットマンの家です!」と張り切っていたが若い9人の挑戦者たちは誰一人『バットマン』を見ておらず(※7)、結局それは空気合に終わった。
しかも全然知らないクセに9人はいつもの調子で「へぇーっ!」「ほんとー?」「すげー!」などと妙な相槌を打つので余計に気まずい雰囲気となった。
クイズ自体のセットを見た途端、秋利のタコは「あ、双子だ、双子だ〜。」と抜かしていたが(※8)、実際は「私がママよクイズ」が行なわれた。
これは子供が描いた母親の似顔絵を見て本物のお母さんを当てるというクイズである。前年の『第12回』で最も人気の高かったクイズとのことだった。
さあいよいよ本番スタートだ!
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
※1 到着時刻は現地時間で9月19日17時8分
日付変更線を突破したので日付が1日戻っている。この日付変更線の通過が、後にある男に悲劇をもたらすことになる。
※2 面胴臭い、もとい、面倒臭い
ウルトラクイズファンにしか通じない細かいギャグを書いている。
※3 別に僕は行きたくはなかったんだけど、一緒に行った4人(ター兄ぃ、永田さん、秋利、及川)がどうしてもというのでついて行っただけなのである
すんません、ウソついてました。
※4 しかし「ちぎっても錦」
「敗れても小袖」といういい方もあるのを知ったのはこの1週間半後のことだった。
※5 狭く真っ暗な場内をぐるぐる回る照明が時折4人の顔を確認させてくれる。これが僕にはたまらなく愉快だった
だったら僕の顔も他の4人から見えてたということじゃねえか。
※6 ウルトラではクイズの戦いの直後、勝者と敗者は完全に隔離される
昔のウルトラでは必ずしもそうではなかった。たとえば『第3回』のサンアントニオでは勝者、敗者が入り混じって「感想戦」をしていた。そういうのも悪くないなあ。
※7 誰一人『バットマン』を見ておらず
これは映画の話ではなく、テレビ番組の『バットマン』。なぜなら映画はこのときアメリカで封切されたばっかりで日本ではまだ上映されていなかったからだ。
※8 秋利のタコは「あ、双子だ、双子だ〜。」と抜かしていたが
ちゃんと放送されていた。恥ずかしいのう。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ここでは僕はとんでもないぐらいの絶不調だった。正解不正解云々というよりも、まず押しても押してもハットが上がらないのである。いくら数ヶ月クイズをやっていなかったからとはいえ、押しのフォームすら思い出せずにいたのだ。
ちなみにここでのクイズでは「ヒューゴ永田」がその猛威を発揮し僕らに壊滅的な打撃を与えてゲームをグチャグチャにしてしまった。
「ヒューゴ」とはこの年の秋口にカリブ海上で発生しアメリカ東海岸に重大な打撃を与えた今世紀最大のハリケーンの名前で、永田さんの早く押しすぎて周囲のリズムをグチャグチャにして行くプレースタイルのニックネームになってしまっていた。(※9)
僕は何だかんだで正解を重ねる他のみんなの動きとは別にクイーンズタウンから続いているスランプから抜け出せずにいた。
もしここでモタモタしてラス抜けに近い結果だったらかえって気分は楽になったのだが、結局2抜けを果たしてしまう。クイーンズタウンと同様、ほとんど運だけで早々と通過を決めてしまった。しかしこれによって余計に自分のスランプを意識してしまうことになり、ボルチモアまでクイズに対して不安な日々を過ごすことになった。
僕が不調だった以上に「パーマン2号」こと恒川が何故か突然大スランプに陥り、いいところを1つも出せずに敗れてしまった。
そして、クイズは好調だったのだが似顔絵当てでの勘が冴えなかった慶應の正木もここで負けてしまった。
思えば正木とは成田のホテルで同室だった仲である。僕のウルトラクイズでの最初の友人だったのだ。
また、恒川といえばRUQSの可愛い後輩である。兄や弟のいなかった僕にとってはRUQSの後輩連中は弟たち、先輩の方々は兄貴のような感覚がある。
恒川とも早いものでもう3年も一緒にいる仲だ。それにあんなに楽しみにしていた誕生日もあと2日でやって来るというのに…。(※10)
出身地は大阪と神戸。ともに関西弁を操る賑やかな男たちが去って行った。勝負の後の別れはもうすでに割り切っているはずなのに、この時だけは切ない気持ちになった。
多少後ろ髪を引かれる思いもあったがまだまだ僕らは先へ進まなければならない。
次の目的地はツインレークスである。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
※9 周囲のリズムをグチャグチャにして行くプレースタイルのニックネームになってしまっていた
ちなみに永田さんほどではないにしろ、やはり早押しをしてしまう僕はヒューゴが発生するまで今世紀最大と言われていたハリケーンの名前から「ギルバート長戸」、そしてここで永田さんに完全にリズムを狂わされた秋利を、ヒューゴが襲って壊滅的な状態になった都市の名前から「チャールストン秋利」と呼んでいた。
※10 それにあんなに楽しみにしていた誕生日もあと2日でやって来るというのに…
これが悲劇だった。この日に負けた恒川は誕生日の前日である翌9月21日にロサンゼルスを出発した。しかし日付変更線をヘンな時間に通過してしまったために、成田に到着したときは日本時間で9月23日になっていた。誕生日をどこで祝うとかそれ以前に、この年は彼の誕生日は存在しなかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
オリジナル原稿にもある通り、ロサンゼルスぐらいまで来るともう観光もへったくれもないようになっていた。面白いのがそれと比例して減っていくのが写真の数である。今回のコラムではなるべく現地の写真を載せているのだが、ここらあたりから怪しくなって来る。
今後、全然違う場所の写真を載せることになると思うので先に謝っておきます。すんません。
LAの写真がないので、いきなり昔のものを。
HPにパジャマの写真を載せて、というリクエストがあったのでこれを。
チャイナドレス風のパジャマの志津姉と。
無理言って一緒に撮ってもらいました。
しかし志津姉、キレイだよねー。
そういやこの原稿読んで思ったのだが、最後まで「30・ユニフォーム」と「31・サバイバル」の謎解きが書かれていない(笑) どうするつもりだったんだろ。どこかのコラムにでも書いたのだろうか。
とりあえずここでこの2つの言葉の正解を書いてみよう。
まず「30・ユニフォーム」から。
これはスポーツのユニフォームと思いがちだが(それは僕だけ?)、実は雨天のときにカメラや機材にかける雨除けのレインコートのようなものだった。そんなこと知るか!
そしてみんなをずっと最後までビクビクさせていた「31・サバイバル」。このジュラルミンケースの中に入っていたものは何か。
何と、「おにぎり」だったのだ。つまり日本食のセットだったのである。
「サバイバル」。この言葉が、どんだけ僕らを疑心暗鬼にさせたか。その答がおにぎりて。
これ、あかんやつや。
というわけで、次のツインレークス篇は22日の夜に。