長戸的「クイズの効能」 その2
180208
横浜でもまだ雪が降っているというのに暦の上では「春」になってしまった。二十四節気の立春が過ぎたのである。
立春といったら、僕としてはやはり中谷宇吉郎博士の『立春の卵』というエッセイがすぐに思い浮かぶ。(あ、中谷博士のことはご存知・・・でいいんだよね? 「雪は天からの手紙である」という超ベタ問題でクイズ界では知らない人がいないのではないかと思われる人物だ。そのメジャーさではジョージ・マロリーに引けを取らない)
このエッセイ。昭和22年に発表されたものなのだけど、むちゃくちゃ面白い。
中国の古書に載っている「立春の日にはなぜか卵が立つ」という摩訶不思議な説を、この年の立春の日に上海、ニューヨーク、東京、札幌などで別々の人が試してみて、すべて見事卵を立たせて立証してみせた、という新聞記事が博士の科学者魂に火をつける!
と、ここで僕があらすじを書いても面白くないよなー。まだ読んだことがない方はぜひ読んでみてほしい。とても短い文章なので、あっという間に読めたりする。内容はクイズ好きなら面白がれること間違いなしだ。
さて、前々回のコラムは「クイズの知識の価値」というテーマで書いた。
クイズには特別な価値などなく単に正解を出せばいいだけだ、みたいなことを書いたんだけど、その中で「クイズが誘発する価値」にちょっとだけ触れた。
今回はそれについて少し掘り下げてみよう。「クイズの効能」第2回である。
クイズの魅力は何ですか、と昔からよく聞かれる。
しかし、こう聞かれても答えようがないというのが実際の話だ。
クイズの魅力なぞ一言では絶対に表すことができないし、多岐に渡っている魅力のなかには上手く言葉で説明できないものまであるからだ。
そういう意味ではこの質問の答は、「やればわかるさ」が最も適切なのかも知れない。
ちょっとした会話の中での場合だと「それは○○ですね」、と適当に答えてお茶を濁すのが通常となってしまう。しかし心の中では、いや、そんな簡単なもんじゃねえよ、と自分の発言なのに無責任にも大否定してしまうのだ(笑)
クイズは本当に魅力的なゲームである。
僕は昔から、チャンスがあるなら誰でもちゃんとクイズをやればいいのにとさえ思っているぐらいだ。
ただし、あくまでも「やりたい」と思ってやるに限るんだけど。
何でもそうなんだろうけど、純粋に「やりたい」と思っている時にしか人間は能力が伸びないからね。「やるべきだ」みたいな方向で考えてしまうと、能力の爆発的な伸びは期待できない。
クイズはスポーツなので、ずっと下手くそだったら奥深い面白さがいつまでたっても理解し切れないでいてしまうのだ。だからやるならやるで、ある程度までは強くないといけないと僕は思っている。
受験勉強のように「受験日」というデッドラインがあるものとは違って、クイズの場合は時間的な後ろがない。だからよほど「やりたい」という意志が続いてなければずっと楽しむことはできないのである。
ただし、「やりたい」という意志をもってクイズにあたると、クイズはいろいろな恩恵を与えてくれる。これは間違いない。まさにクイズの効能である。
クイズをやるということは、すなわち結果的に必然的に知識量が増えるということになる。この縛りからは誰も逃れられない。つまり誰であっても否が応でも物知りになってしまうのである。
しかもその知識は学校で教えられたり勉強で知るそれらではなく、硬軟織り交ぜた、それこそありとあらゆるジャンル、そして定まりのない深さのものなのだ。
人間が生きていて何か仕事や趣味を始めるとその対象の分野の知識は増えていく。当たり前だ。しかし当然それ以外のことには疎かになってしまう。
余暇に映画を見まくる人や本を読み倒す人なんかは知識の幅がそれでも増えるのだろうけど、しかしやはり自分の興味の範囲でしか知識は拡がらない。
クイズはそれらとは根本的に違っている。知識の範囲を拡げることが大前提となっているから、自分の好みが入る余地もなく結果、知識は洪水のように入ってくるのである。
ところで、人が何かに興味を持つのはまず「情報が届く」ことから始まる。
あのお店に行ってみたい、あの風景を見てみたい、など、人が持つ興味や欲求は、必ずその店であったりその観光地だったりの情報を知ってからということになる。
つまり、経験を得るための手続きの順序は多くの場合が
「情報=知識 → 興味 → 行動 → 経験」
という図式になるのだ。(広告業界でよく言われる「アイドマの法則」っぽい話だが)
もちろん「情報」が入ったとしても最後の「経験」まで辿り着けないものが圧倒的多数であり、その前の「行動」や「興味」まですら行かないものもあるだろう。
とはいってもこれからわかることは、「情報」はあればあるほど「経験」に辿り着く可能性は高くなるということである。
これは何気に凄いことだと思っている。
だってたとえば子供たちが将来何になりたいかというベタなアンケート記事あったとして、その回答では日本の男の子だったら「野球選手」が常に上位に来るが、バングラデシュの子供たちだったら「クリケット選手」が大抵は1位なのだ。
これが逆になることはほぼほぼない。その最大の理由は「そのスポーツを見たことがない」に違いない。
知ることが将来の可能性に影響を及ぼすなら、よりたくさんの情報=知識を知っている方がいい。少なくとも僕はそう思う。
何かをしたいという欲求は必ず情報の後にやって来るのだ。
ただし1つだけ副作用がある。
選択肢は増えれば増えるほど「迷う」や「わからない」も誘発してしまいがちになる。だから人によっては情報や知識が多いことは一歩目を踏み出しにくくする要因となるかも知れない。ここだけは注意が必要かな。
なーんて、ここまでの話はそんじょそこらの学校の先生だって話せることである。
知識は経験の元である、ということは。
それは間違いのないところだが、しかしながらクイズ屋が持つ溢れんばかりの「情報=知識」が起こす面白いことは、また違った角度で発生したりする。
たとえば、出不精な僕でもごくたまに街をブラブラすることがある。
街を歩いていて面白いのは、偶然発見するよさげな店だとか、思いがけなく出会う風景だったりするよね。
でも実はこれはさっきの「情報→興味→行動→経験」の図式から外れている。だって最初の2つがないからだ。いわば「行動→情報→興味→経験」である。
クイズをやっていて面白いのは、まさにこの図式がありとあらゆる方向から飛んでくることだ。しかも不意に。
「情報」がまずあってそれが「経験」に向かうのはよくある話として、最初の情報とは関係のない新しい情報が、その途上でスピンオフのような感じで飛び込んでくるのである。
よくあるのが観光地でのこと。あそこの温泉に行きたいと思って訪ねて行った先の駅の案内で、「○○の生家跡」みたいな文を発見する。お、これってあの○○か、みたいな感じになり、じゃあ寄ってみようかという気になる。
で、この○○という人物が、好きな人には好きかも知れないけど世間的にはマイナーだった、なんてことがあったとしてもクイズ屋にとってはお構いなしだ。だってどんな人物でも「クイズ問題に出たことがある」で一括りになってしまうから(笑)
温泉宿に泊まって夕食に「これは当地の名物の××でございます」とか言われて、それがまたクイズでしか聞いたことがないものだったら、「おー、これが××かー」と見事に食いついてしまったりする。もちろんやはりこの××も世間的にはクソマイナーなものでありがちだ(笑)
こういう感じで、クイズをやっている連中はあらかじめ体の中に閉じ込められている情報が何かのきっかけで外に出て来るのである。
「おー、これがクイズによく出る△△かー!」
というのがお決まりのフレーズである(笑)
ただし、こう盛り上がるのがクイズ仲間との旅行だったらまだいいんだけど、カタギの人との旅行だと、「何を一人で盛り上がっているんだ」と必ず引かれるので注意してほしい。
でもこのスピンオフっぽく突然やって来る情報の入り方と、それに付随する降ってわいたような興味の起こり方は、自分の中で起こっている手続きとしても、僕は好きでたまらない。
クイズをやるとこういう人生になってしまうのである。
さあ、ぜひ皆さんもこっち側へ(笑)
ではまた来週の木曜日。