長戸的「クイズの効能」 その1
170622
このコラムを書くようになってクイズに割と正面から向き合うようになったのだけど(今頃か)、今回は「そもそも論」的に、クイズをやることとは、という根源的なことを考えてみたい。
つまりクイズをやることのメリットとはなんぞや、ということだ。
よくクイズは「学校の勉強」や「ビジネス」なんかに役に立つのではないか、と言われることがある。僕もこれまで何度かそれをテーマに本を書かないかとも言われた。
しかしながら僕はその意見には今もって懐疑的で、それどころかクイズをやることそのものは実際のところ何の役にも立たないのではないかとまで考えている。
そりゃたしかにクイズを始めたことで学校の成績が上がった人もいるだろうし、営業成績が上がった人もいるかも知れない。しかしそれはあくまでもその人独自の特殊な例でしかなく、クイズそのものが普遍的に与える効果ではないと思うのだ。
たとえて言うなら、小学生に「野球を始めると家が建つよ」というようなものではないだろうか。
たしかにその子に超がつく野球の才能と運があったのならプロ野球選手にはなれるかも知れない。そして莫大な契約金や年俸で家が建つこともあるだろう。でも全ての子供が「野球を始めると家が建つ」とはならないはずだ。
つまりこの言葉は野球のメリットそのものを表していないことになるのがわかる。
この言葉が極端として、野球をやると得られるとされる他のメリットはどうか。
たとえば「野球を始めると健康になるよ」はどうだろう。「野球をやると野球のルールを憶えられるよ」ですら怪しいよなー(笑) プロ野球選手でもルールを知らない奴がいるもんね。
つまるところ、何かのメリットというのは、どこまで行っても「人による」という部分がまとわりつくのだ。
クイズでも当然同じことが言えるはずで、「クイズをすると〇〇になるよ」はやはり意味がなさそうだ。
だから子供を持つクイズ好きの親御さんが「クイズを始めると東大に入れるぞ」と考えたり、「クイズを始めるとビジネスに役立つぞ」といってクイズを頑張り続けるサラリーマン諸氏はやめた方が絶対にいいと思うのである(笑)
では実際のところ、クイズと勉強やクイズとビジネスには相互を発展させる関係性はないのだろうか。
これは「ある」と僕は考えている。
ただし、そこには「解釈力」という力が不可欠だ。
物事の本質は何か、いま起こっている現象の根源は何か、そしてそれを別の分野に置き換えるとすればどう応用できるのか、などを的確に捉える力である。
これがありさえすればたしかにクイズで得られるさまざまな能力や経験は勉強にもビジネスにも生かすことができる。
でもこれも本当はもっと一般的な話であり、ありとあらゆる物事は相互に作用できる、とも僕は考えている。
たとえばクイズのプレーそのものを分析すると、やりたいスポーツの技術や成績が向上する。もうこれは僕にとっては当たり前のことだ。
受験勉強で得た心構えや粘り強さをクイズに応用することも可能だ。もちろん受験で得た知識も多少はダイレクトに役にも立つがそれを置いておいたとしても。
そして受験勉強からもスポーツの技術や結果の向上を生むことができるし、逆もまたあり得る。
そうなると生きていることで起きることには全て本質的な共通点があり、それをうまく活用すると相互的に影響を及ぼすことができるはずである。
よく「釣りは人生に似ている」とか「農業は人材を育てるのと同じ」などという言葉を言う人がいるが、僕に言わせれば、それは当然のことなのだ。
釣りどころか、スーパーマリオブラザーズを通しても人生を語ることはできるだろうし、ラーメンの食べ歩きからでさえも人材育成のヒントは必ずあるのだ。
だからクイズに対して何か意味付けをするならば、それ相応の解釈力を持ってしないと不十分だということになるし、逆に解釈力さえあればクイズからいくらでもメリットは引き出せるのである。
クイズそのものに他に意味がないだけにそこは能力に左右されるというわけだ。結局ここでもやっぱり「人による」というわけか。
それでは、僕を始めとしてクイズを続けている人というのは何を目的にやっているのか。
それは単にその人にとって「純粋に楽しいから」である。
単純な結論なのだが、これ以上でも以下でもない気がしてならない。
ついそこに何ならかの意味をつけたがるのが人間なんだけど、そんなもの、意味なんてなくてもいい、と思うのは僕だけだろうか。
少なくともどう考えてもクイズをやることで学校の成績が上がるとは思えないもんなあ(笑)
話はちょっと飛ぶけど、今の人は知らないと思うが、『高校生クイズ』の第1回はかの旺文社がサポートをしていた。だから我が京都府立嵯峨野高校には『第1回高校生クイズ』のポスターが堂々と学校に貼られていた(笑)
しかも進路指導部の入り口という超一等地に(笑)
それぞれの正しい意図はよく知らないが、旺文社にしても学校にしても、クイズと学業の融和性をぼんやりと感じてしまったのではないだろうか。そんな融和性は直接的にはないのにもかかわらず。
ただ、クイズにハマっていた僕にとってはそんなことどうでもよく、進路指導部を錦の御旗に友人を8人も大会に道連れにしたことだけが事実としてあるんだけどね。
ところで「純粋に楽しい」という背景には、クイズにある悪魔的な魅力が原因である、と僕は考えている。
僕の周りには実に楽しそうにクイズをする連中がいる。それはRUQS(立命館大学クイズソサエティー)であってもクイズ倶楽部であっても。
その連中は当時、人生におけるクイズの意義は・・・などは絶対に考えてなかったと思うし、現在も何も考えていないはずだ。(決めつけてますが)
彼ら彼女らはクイズはとにかく自分にとって楽しかったから続けていた、に過ぎないのである。
こういうわかりやすい点もクイズはスポーツに似ている。
部活のバスケットボールの3ポイントが上手くなったからといって実生活の何かに直接影響を与えることはない。テニス部の試合でパッシングショットが決まってもテストの成績が上がることはないのだ。
でもこれらは人生にある種の潤いをもたらす。いや、もっと正しく書くと、これらの技術を会得することで潤いを感じる人にとっては、それらは確実に潤いをもたらす、といったところか。
クイズで正解して喜ぶこと、間違った解答をして自分自身もおかしくてみんなで大爆笑すること、テレビに映った自分を見て何か恥ずかしさが湧くこと、それらを楽しいと感じることができる人にとっては、クイズは底なしに充実感を与えて続けてくれる。
しかも何の資格も資金も必要がない。自分の体一つで今日からでも感じることができるものだ。年齢制限もない。80歳になっても90歳になってもやろうと思えばできるし、場所による制限もない。
仲間の範囲も無制限だが、その人はその人で自分自身の楽しみを基準としているのであるから、自分の楽しみの「前に」(ここが大事)その人の楽しみを尊重することさえできれば自分自身の楽しみは保証される。
僕は40年近くクイズをやっていてさまざまな恩恵を受けてきた。
それらは僕の解釈によるものだから普遍的でないのはすでに説明の通りなんだけど、僕的に感じたそれらのことを「クイズの効能」としてこれから何回かにわたって(気が向いたときに)書いてみたいと思う。
それを読んでワクワクしてもらえて、それをきっかけにこの悪魔的な楽しさを持つ競技にハマってくれる人がいたら嬉しい限りだ。
そしてそんなあなたが他の仲間の楽しみを最大限に尊重できる人であるならば、いつかぜひ同じ場に集ってボタンを押そう。
ではまた来週の木曜日。前日の水曜日、ちゃんとテレビ見てね(笑)