師匠を持とう
170202
競技性のあるクイズへの接し方には大きく2種類あると思う。「勝負」としてと、「雰囲気」としてと。
これ、別の言い方をすれば、「勝つ」と「親しむ」になるのだろうか。
「勝負」が意識されたクイズの現場では、「出された問題に自分が答えられるかどうか」という内なる戦いと、「誰かよりも早く(多く)正解する」という外との戦いが必ずある。
そしてそこを何とか自分のものにしようと、みんな前を向いて頑張っている。この意識がないと達成感も何も得られないからだ。
これに対して「雰囲気」で接する人は、そういう場に身を置くこと自体が好きという意味で、さっきの内なる戦いも外との戦いもあまり重要ではない。
クイズはスポーツだとさんざん言ってるんだけど、この「雰囲気」が好きな人は、たとえ競技性のあるクイズであっても「健康のために毎朝歩いています」といった「生涯スポーツ」っぽく接することになる。
もちろんこれはこれで全然アリだと思うし、僕はむしろこういった人が増えてくることにこそ、これからのクイズの新しい世界を作るヒントだと思っている。
僕はといえばこれまで徹底して「勝つ」ことに意識を置いてきた。
たぶん他の誰よりも勝つことに貪欲だったと自負している。勝利への手段や手法のバリエーションがむちゃくちゃ多いのは、僕とクイズをやったことがある人なら誰でも知っていることだ。
さて、クイズであろうが何であろうが、本気で何かに「勝つ」という意識があるなら、自分の技術や考え方、方法論などすべてのことが勝利を基準にしていなければならない。
その方法のどこに重点を置くかは人それぞれなんだけど、よくわかっていない人が多いことも事実だ。
たとえばクイズの若手なんかには、話しているとかわるんだけど、「勝ちたい」と「強くなりたい」を同列のように扱っていて、「勝つ」と「強くなる」を混同している人がよくいる。
この2つのものは、全然別のものなのに、それぞれが何なのかという意味すら考えないようだ。
勝負事に対する意識はあくまでも勝利が最優先である。
1点差で勝とうが圧勝しようが相手の失格で勝とうが、1勝は1勝。反対に、いくら善戦しても最後の最後にミスをして負けた試合は完封負けと何ら変わらない1敗である。
とにかく「勝つ」を手にするために「強くなる」のであって、それはあくまでもプロセスに過ぎない。「強くなる」ということばかりに意識を向けると、かえって本丸である勝利を攻め落とすことがおろそかになる。プロセスは重視し過ぎるのはいけないことなのだ。
「勝つ」ためにその手段として初めて「強くなる」がある、という順序をしっかりと意識することが大事だ。
別の考え方をすれば、「強くなる」が勝利への手段である以上、当然のことながら「弱いまま」でも勝利を重ねられればそれでいいとも言える。
ボウリングなんかがわかりやすい。誰でもストライクを取ったことがあるだろうけど、あれをもし連続して何十回何百回もできれば、あなただって世界選手権を取ることができる。しかしそんなことは確率として0ではないにしても誰にとってもほぼ無理なこと。そのためにボウラーのみなさんは日々の訓練をしているのだ。
ではこの「勝つ」への手段である「強くなる」にはどういった方法があるのか、それを考える前にちょっとこんなこと考えてみてほしい。
クイズを始めたころ、仲間と話していたりすると、「あの人は強いなあ」とか「どうやったら強くなるんですか?」という言葉を話したり聞いたりしたことがあると思う。
これらの言葉における「強さ」というのはどういう状態を指すのだろうか。
どうだろう、実はこの「強さ」はあまりにもアバウト過ぎて具体的に何がどう、とか今でもわからないのではないだろうか。
つまり、この「強さ」という言葉に意味付けをすることが勝利への最初のステップなのである。
これは個人によって違う。いやむしろ、個人によって違う方が正しい。
内なる戦いの勝利を目指す人には「たくさんの知識を持っていること」が「強さ」だろうし、外との戦いを重視している人にとっては「テレビ番組で優勝を重ねる」かも知れない。各個人が自分が設定した勝利に寄せて行かないと意味がないわけだ。
僕からのアドバイスとして、この「意味付け」の簡単な方法がある。それは「師匠を持て」ということである。「アイドルを持て」という場合もある。
不明瞭な「強くなる」に対して、「勝つ」は案外自分自身の中にすでに映像があることが多い。どんな結果を出す自分になりたいのかは、すなわち、どんな結果を出している人に近づきたいか、ということなのだ。
80年代に頑張っていた僕らの世代でいえば、「○○という番組で勝ちたい」というのがあったし、僕らよりも上の世代でいえば「クイズ番組で賞金を稼ぎたい」とかいうものもあっただろう。いずれにしてもこれらは明確な目標だった。
しかし最近はそういうわけにはいかない。テレビ番組がないからね。だったら、「誰々のようになりたい」と思うことが一番手っ取り早いのである。
で、この「誰」の意識の仕方なんだけど、それこそが「師匠」か「アイドル」なのである。
「師匠」といえばなんか重厚そうなイメージだが別にそれはどうでもよく、結果を出している人なら誰でもいいのだ。身近にいる人で、自分より前を歩いている人で、魅力的な人であれば構わない。本当にその人が手にしている結果を自分もほしいと思ったなら、徹底的にその人に教わって真似ることが大事だ。
「学ぶ」は「真似る」から来ているという。この「真似」ができる人が結局は勝っている。
しかしこの「真似る」が案外難しい。
たとえばとても重要なことがある。その「師匠」と話をしている途中で、これは違うな、と思うことがあったとき、そこで自分の考えよりもその人の考えを優先できるかどうかということだ。その人が黒といったものを、いや白いんだけどなあ、と思うのは禁物なのだ。
強い人、勝ってる人にはちゃんと理由があり、弱い自分、勝てない自分との間に何かのズレがある。たまたまこの「黒」と「白」こそがそのズレの1つだとしたらそこを疑っていると絶対に乗り切れないわけだ。そのズレが何なのかわかるのは自分が強くなってからなので、弱い自分が先にそこを疑ってはいけないのである。
これは子育てをした世代にはわかりやすい話だと思う。子供の頃に考えていたことは親の立場から見てみるとこんなに誤解があったのか、って。もちろん僕もそのうちの1人なんだけど(笑)
自分の周りに師匠になりそうな人がいないときや教えを請いたいと思う魅力的な人がいないときは、「アイドル」を持てばいい。
この場合の「アイドル」は声援を送る対象ではなく、あくまでも結果としての偶像だ。
ダイエットをしたい人が目指すプロポーションを持っているモデルのポスターを部屋に貼って毎日見るという図式と同じである。
「師匠」と「アイドル」の違いは、直接に方法論を聞けるか否かにかかっている。
モチベーションの保持という観点から言ったら師匠が存在する方が圧倒的に有利だ。しかしながらアイドルを持つ場合は、心が折れたり迷子になって、結局諦めてしまう可能性は大きくなるといえ、もし思いを持続できる人だったら、師匠を持つ人よりも無茶苦茶強くなる可能性がある。なぜならば「師匠」という存在は案外「越えられない」と勝手に意識してしまうものなので、悪い言い方をすると、その人のレベルで頭打ちになってしまう可能性が高いからだ。
ここでもう1つのポイントが見えてくる。アイドルは変えなくてもいいが、師匠は自分の達成の度合いによってどんどん変えていくべきものだということだ。
しかしながら、「もうあなたからは吸収し切ったので必要ありません」などと言うべきではない(笑) 上手く相手との距離を詰めたり離したりして関係を変えていくことが大事なのだ。さらに、人間は誰でも学ぶべき要素を持っているのでたとえ追い越したと思ったとしてもそこからでもまだ吸収するぞ、という貪欲さを持ち合わせる必要があるから、その「旧師匠」は大事にするべきなのである。
もちろん、いつまでも学びや気付きを与えてくれる師匠には、ずっとそばにいて学んでいけばいい。そういう人に出会えるのは人生の幸いだ。
忘れないでほしいのは、「勝つ」が最優先で「強くなる」はその手段。そしてさらに「師匠を持つ」はその手段に過ぎない。
とにかくどんな手段でもいいから勝利を手にする、という意識を持つことが最優先なのだ。
そして勝利を手にしたときにわかる面白いことがある。それはその勝利も実は「強くなる」の一手段に過ぎなかったんだ、ということが。
体を鍛えて富士山登山を達成した人にとって、その富士登山達成こそがエベレスト登山へのモチベーションになった、ということもあるわけだからね。
どこで満足しても構わないけど、やろうと思えばどこまでも追い求められるのが競技性のあるクイズの面白いところなのである。
ではまた来週の木曜日。