第1チェックポイント 成田→グアム (1989年9月2日)

170903

AM10:00。グアム行きNH911便(※1)は成田を出発した。
いよいよウルトラクイズのハードな旅がスタートするのだ。今度、この日本の地を踏むのは敗者としてか、それともたった1人の勝者としてか。

ジャンケンに勝ってホッとするのも束の間、いきなり僕らの前に最初の関門が立ちはだかる。
恒例「機内400問ペーパークイズ」である。
このクイズはあの狭い機内で400問にも及ぶ三者択一問題(3択)をやろうというものである。
200問ずつを前後半に分け、それぞれを20分でこなさなければならない。
問題用紙と解答用紙は別々なのでついマークミスをしがちになるが、もしミスしても書き直しはできない。

敗者復活の3人を入れて現在55人。この第1チェックポイントを通過できるのは上位40人である。

機体は水平飛行に移った。第13回アメリカ横断ウルトラクイズ、よーいスタート!

機内ペーパーが始まる直前。
スタッフの廣田さん(挑戦者担当のAD)が説明をしている。
にも拘らず写真を撮るという暴挙に出てしまう。
スタッフが怖い顔をしてこっちを見ている。
そりゃそうだ。すんません。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

※1 グアム行きNH911便

機内ペーパーが行なわれる旅客機はウルトラクイズ御一行様の貸切のように思えるが実際は一般の人も搭乗している。接触することは基本的にはないもののトイレなどで機内を移動すると鉢合わせすることもある。
そしてそんなときは決まって、「あ、クイズ?」とか言われたりする。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

前半200問が終了した。

ヤバい。全然わからん!
何故かというと前半にはやたらに時事問題が多かったのである。僕にとってはここを突かれるのが一番痛い。
いくら病院で三択を3000問こなしてきたとはいえ、それには時事問題は1問も入っていなかったのである。

10分の休憩の後、後半戦に突入する。
後半は前半と打って変わって基本的な問題が続いた。
「よし、これならいける。」
手応えは十分だった。

途中通路をはさんだ隣の人を撮るために来たカメラマンの尻に邪魔されながらも何とか時間内に解答、見直しができた。(※2)

第1チェックポイントは終了した。
まさか落ちるかもなどとは象の鼻毛ほども思わなかったが、とにかく何位に入れるかそれだけが心配でたまらなかった。
もしジャンケンで仲野が勝っていれば機内1位は不可能に近かったのだが今は奴はいない。
となるとこの面子から行くと敵は永田さんか秋利だけだな、などと考えていた。

グアム国際空港到着。一般のお客さんが降りるまでしばらく待つ。
そうこうしているうちにいよいよ僕らの番になった。ご丁寧にやはりブーブーゲートがタラップには取り付けられている。

番号の大きい者から順に降りて行くことになったが、僕の番までにはかなりの人がゲートに引っ掛かった。ガッカリして戻ってくる顔を見るのはやはり辛いものがある。

僕にとっての明るい出来事は恒川が通ったことだった。まさか落ちはしないだろうとは思っていたが、地上で喜ぶあいつを見ていると何かホッとするものがあった。(恒川が一体何点で通過したのかは知らないが、「イカ天といったら何のこと?」(※3)という問題に「イカした天気予報」にチェックを入れて1点失ったのは本当だ)

61番、成田で同室だった慶應の正木が通った。喜ぶ声が機内に流れてくる。
さあ僕の番だ。

「立命館大学OB、長戸君。」
トメさんからのコメントが入った。とんでもない話だ。一体どんなデータがスタッフに渡っているのだ。
「ちゃうちゃう。まだ4回生。」
と、とっさに対応してしまったが実はこれもとんでもない話で、僕はこのとき4回生ではなかったのだ。この年は大学を休学しており、回生ではなかったからだ。(僕を4回生だと信じてこの3月に「卒業おめでとうございます」のメッセージを添えてプレゼントや花束、電報などをくれたファンのみんな、どうもありがとう。残念ながら僕はまだ卒業してません。)(※4)

さあ、トップか否か。
恐る恐るゲートをくぐってステップを踏む。
「・・・・・」
よし、とりあえず通過は決定。
「何点取れたと思う?」
「6割5分ぐらいかな?」
「7割弱だよ。しかし機内第1位!」
やったー。機内トップだー。よし、これでたとえグアムで負けても絶対にテレビに映る。ウルトラの歴史に名が残る。(※5)
(このときトメさんは270点台と言っていたが別のスタッフは294点と言っていた。真相はわからないが、もちろん僕は294点の方を信じている)

59番の島田(※6)は落ちてしまったが、稲ちゃん、永田さん、谷中、山本(※7)、そして1回生の虫明(※8)までもが通過し、RUQSは無傷の全員通過を果たした。

55人全員の発表が終了した。通過人数は、1、2、3、・・・、39、40、41。・・・41?・・・41!
何と通過者は41人もいたのである。というのも39位で同点が3人もいたからだ。
というわけで、ここでこのワースト1の3人によるサドンデスの○×クイズを行なうことになった。
そのワースト1の3人は、名大の片山(※9)、同志社の池田(※10)、そしてRUQSの虫明だった。
敗者は瞬く間に決まった。虫明だった。ポーカーフェイスが売りの彼は無表情のままゲートをくぐったが、また無表情のまま機上の人となってしまった。

グアム上陸40人決定。まだまだ第1チェックポイントが過ぎたところ。敵は39人もいる。
見上げると太陽はグアムの太陽だった。

この貴重なショットは永田さんのカメラでのもの。
これから先、永田さんのカメラが信じられない場面を記録していくのだ!

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

※2 何とか時間内に解答、見直しができた。

これ、実際にはもっと深刻なことが起こっていたりする。
後半の20分がスタートして半分ぐらいのときにトメさんがいきなり「あと5分です」とコールしたからだ。直後に訂正されたので事なきを得たが、あの時は焦ったの何の。こっちは400問を解くための「100問10分」の体内時計ができているため、ありえない時間の流れだったのである。
本放送の機内ペーパーの様子で、僕がむちゃくちゃ驚いた表情をする場面があるが、あれはこのコールミスを受けた時のものなのだ。

※3 「イカ天といったら何のこと?」

若手は知らないだろうなあ。当時「イカ天」と略される人気音楽番組があったのよ。ただし関西では一切放送されていなかったので「浪花の商人」の恒川が知らなかったのも無理はないのだった。ちなみに正式な番組名は『イカの天ぷら』ね。(ウソです。『三宅裕司のいかすバンド天国』が正式名です)

※4 残念ながら僕はまだ卒業してません。

この『クイズは創造力』が世に出た当時、僕は4回生で復学していた。翌年偉大な稲川先輩のように5回生まで進んだが、そこでめでたく中退してしまった。その直後、2度目の南米へ旅立つのである。

※5 絶対にテレビに映る。ウルトラの歴史に名が残る。

このツアー中、僕はそんなことばっかり考えていた(笑) いかにカメラをもらうか。若手芸人の気持ちはよくわかる。

※6 島田

島田くん。ドーム予選で僕らの近くに常に陣取り、ぴったりついてきてここまでやって来た知り合いでも何でもない人(笑) もちろん13回のメンバーとしてその後仲良くなった。でも下の名前を忘れたぞ。島田あー、元気にしてるかー。

※7 山本

山本信義。当時3回生。今でも「10番」は「シドニータワー」なんだろうか。

※8 虫明

虫明隆。ポーカーフェイスが持ち味の1回生。ブーブーゲートを無表情でスタスタ通過するというネタをやれ、と怖い先輩に言われてそのまま実行するも、トメさんに「オイオイオイオイ」とか言われるわ、全てカットされるわで散々だった。虫明すまん!

※9 名大の片山

片山泰宏。クイズ研ではなかったのに名古屋大学というだけで「立命館」「東大」「名大」のカテゴリに入れられていた。後にモーリー耕作隊の1人になる。

※10 同志社の池田

池田豊。こちらは当時、同志社大学にあった「元禄の茶壷」というサイケデリックな名前のクイズ研のメンバーだった。『第13回』ではモーリーでのバラマキで「イノイノブタはイノブタと何の子?」という問題に「ウシ」と答えたことでおなじみ。そんな珍解答をしているから耕作隊になってしまうのじゃ(笑)

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この機内ペーパーはジャンケンの直後、すなわち9月2日の土曜日に行なわれている。
そしてグアムのドロンコは翌3日の朝から行なわれ、負けると即座に帰国となる。
つまり日本テレビに集合したのが金曜日の夕方で、もしグアムで負けても日曜日には成田空港に戻ってこれるというわけだ。ジャンケン、ペーパー、ブーブーゲート、ドロンコなどの極限の非日常を経験しても実は仕事や学校は休まずに済むのである。

というわけで、この続き「グアム篇」は1日ズレて9月4日の夜に。