ウルトラクイズ対高校生クイズの決闘・つづき

170914

日本テレビの特番(のワンコーナーのワンコーナー)で僕ら「ウルトラクイズの優勝者」と「高校生クイズの優勝者」がガチのクイズ対決を行なった。今回はその話の続きである。

ところでこの収録中、早押しクイズをやっている時に僕は不思議な感覚に陥った。

僕のクイズ的なピークといったら1988年である。
当時は誰とやってもどんなスタイルでも負ける気がせず、クイズ的に「この世の春」を謳歌していた(笑)
この年の末には「学生クイズ日本一」の称号である『マンオブザイヤー』と、クイズ研の頂上決戦とも言えた『アタック25 700回記念 100人の大サバイバル』に立て続けに勝ったのだった。
そして同時に、実は、僕はクイズ的には燃え尽きてしまったのである。

ただ、この2つのクイズに勝ったことは燃え尽きの決定打ではあったのだけど(個人で1位になったのと、RUQSを1番にできたということで)、しかしながらもっと大きかった要因は『第12回アメリカ横断ウルトラクイズ』で「補欠」になったことだった。

『ウルトラクイズ』のドーム予選では、その場ではきっちり100人の合格者を決めるのだが、成田までの半月の間に、たとえば僕のように入院したり(笑)、都合が悪くなる人が出てくるため、常に数名の補欠を確保することが通例だった。
それは最後の1人が確定した問題で間違えた人を仮の優先順位1位として、問題を遡って補欠合格者を選ぶのだ。
ちなみに『第12回』の優勝者である瀬間康仁さんはこの補欠組である。最終問題で間違える姿は本放送で流れている。

『第12回』で補欠になった僕だったが、結局日テレからはお呼びはかからず、そこでようやく「ちゃんとした敗者」(笑)となってしまった。
このことで、ある種の張りつめていた糸が切れたのは確かだった。

ウルトラとは縁がないんかなー。
と思ってしまったのである。
しかしクイズ自体は楽しいままだったので、RUQSのみんなとはワイワイ楽しくやっていた。
そこへさしての年末の2連勝である。
これでとうとう僕はクイズ的には燃え尽きてしまったのだ。

翌年の春、大学を休学までして南米へ行ったのは、ウルトラクイズ制覇とは違った夢を叶えようとしたからだ。
『第13回』は本来は出る気がなかったと僕は公言しているが、それはこういう理由だったのである。

しかしながら結局は帰国することになってウルトラに出場。あとのことは「28年前日記」の通りだ(笑)

さて、日テレの収録中、早押しをしていて感じた不思議な感覚とは、この1988年夏前当時の気持ちを感じたということなのだ。
僕は『第13回』での優勝を、それまでずっとクイズで頑張ってきた「ご褒美」と捉えていた。だからそれ以降はクイズはイヤイヤとまでは言わないものの、消極的な関わりとなってしまった。テレビのクイズ番組の出場、出演をことごとく断ってきたのもそのためである。クイズは極めて狭い友人関係の中だけでやるもので、手広くやる気は全くなかったのだ。
「クイズ倶楽部」という社会人サークルを自分が呼びかけて結成したにもかかわらず、例会の朝は毎回「行くのイヤやなー」「ええ天気やから遊びに行きたいなー」とか言って「みけねこ堂」を困らせていた。

しかしこの日の日テレの収録時、気持ちが1988年に戻ったときに感じたのは、クイズをすることってこんなに楽しいことだったんだよな、という思いだった。久しぶりにクイズの楽しさを心の底から感じた。
瓢箪から駒とはまさにこのことだ。全然適当にやり過ごすつもりだった特番のクイズで、まさか目覚めさせてもらえるとは。びっくりである。

そしてその後にあった例のアンヌ隊員のイベントも僕の気持ちに拍車をかけてくれた。(Column038「トークショー」参照)
「想い」を持ち続けることに対する姿勢、そしてそれを受け止め続ける姿勢など、ホントに多くのことを学んだ。

今現在、僕はとてもサッパリした気持ちでクイズに向き合っている。
僕の気持ちを変えてくれた原因は、「ウルトラハット」であり、麹町の日本テレビのスタジオという場の力であり、福澤さんであり、加藤就一さんであり、一緒に問題を考えた能勢や松尾さんであり、そして僕と戦ってくれた元高校生の3人なのである。

岡山のクイズ女王でクイズ倶楽部のメンバーでもある今尾(山内)奈緒子は僕と会うたびに「クイズやりましょー」「呼んでくださーい」って必ず言ってくれるが、今は彼女の気持ちがよくわかる。僕こそ呼んでほしい(笑)

というわけで僕的にはすごい転機になりそうな日テレのクイズなのだった。おわり。

ではまたいつかの木曜日。
引き続き「28年前日記」をお楽しみください。