国内第三次予選 成田空港 (1989年9月2日)

170902


朝の成田空港。ジャンケンは早朝に行なわれるのだ

いよいよツアーがスタートする。

と、その前に。
まずはここでお願いを。

『第13回アメリカ横断ウルトラクイズ』で成田までたどり着いた、僕以外の103人のみなさん(とスタッフのみなさん)。それぞれのチェックポイントではこんなことがあったよ、こんなことを考えていたよ、みたいな話があったら僕の方まで書いて送ってください。
掲載が間に合えばそのチェックポイントのゴシック文字の部分で可能な限り触れさせていただきます。
あ、自分が負けた後のチェックポイントでの話はナシね。第三者的な立場のものはご法度です。
もし掲載に間に合わなかったり、そういや僕にはこういうことが、みたいに僕の文章を読んで思い出したことなどは、該当チェックポイントの「日記」にフォローとして入れておきます。
トップページの「feedback」から、第13回のエントリー番号と名前を明記してネタを書いて送ってください。1人何ネタでも構いません。
僕と知り合いの方はメールでも電話でも伝書鳩でも何でも結構です。
ぜひ一緒に話を分厚くしていきましょう。

あと、『第13回』のみなさん、名前と写真を勝手に掲載することがあります。許してね。
使うのはもちろん当時のスナップ写真なので限られた人になりますが、もし写真はNGなのー、という人がいたら僕に連絡してください。よろしくお願いします。

では再開。

どうにかこうにか日本に帰って来てドーム予選に参加した僕は、激戦をヘロヘロで突破した。
しかし安心するのも束の間、「病院」という国内第二次予選地にA型肝炎という罰ゲームとともに強制送還ならぬ強制収容されてしまう(笑)

8月の後半2週間、僕はベッドの上で過ごすことを余儀なくされたが、成田予選を3日後に控えた8月31日、半ば強引に退院する。そしてその日のうちに荷物をまとめて京都を後にした。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

病院を退院した次の日、僕は千葉在住の先輩、佐原さん(※1)のおごりで千葉市内にあるホテルに泊まることになった。ここは前年、やはり佐原さんのおごりで、かの瀬間さん(※2)が泊まったホテルでもある。
「もし君が勝ったら僕はまた来年RUQSの誰かをここに泊めなきゃならないなぁ…」
佐原さんの言葉が印象的だった。

翌日の日本テレビの集合時間は午後7時(※3)。
僕も午後3時ぐらいには都内に入ったが時間があったのでまずはパチンコ屋へ(※4)。ここで軍資金を増やして午後6時半ごろ、僕は目的地に到着した。
受付で名前を伝え、あの大きな名札を受け取る。そして荷物を預けて大会議室へと入って行く。そこには先にもう70人から80人の挑戦者がいた。

僕が部屋に入って行った時、あちこちでどよめきが上がった。
今回のドーム通過者の104人にはどういうわけか僕の知り合いが多く、その数は何と3分の1近くだったのである。
そして彼らの間では僕が出場を辞退したという「怪情報」が流れていたのだ(中には死んだという説もあった)。(※5)
そのどよめいた者の反応は様々だった。
「大丈夫?」と声を掛けてくれる別の大学のクイズ研の女の子や「辞退してくださいよー」と笑いながら言う奴なんかもいれば、固まって冷たい視線を浴びせる連中などいろいろだった。

プロデューサーや近畿日本ツーリストの人の話の後、僕ら104人は3台のバスに分乗して成田エアポートレストハウスに向かった。
(これからウルトラクイズに参加される方に一言言っておくと、その年に参加した全員の名簿を作るには、このバスの中でノートを回すのが一番の策だ。どうせ後で忘年会なり何なりをやるのだから早めに手を回しておくのがいい)(※6)

ホテルでの部屋割りは男女別の番号順に機械的に決められていった。
エントリーナンバー60の僕の同室は61番の慶應大学の学生、正木茂だ。
「初めまして。どうぞよろしく。」
お互いに挨拶を交わしたのだが、この時はまさかこの後、ロサンゼルスまで一緒に旅をすることになろうとは夢にも思っていなかった。

集合は朝の5時とのこと。
あまり夜更かしをするのも何なので(といっても時計の針は軽く0時を回っていた)(※7)、僕らは眠ることにした。
病院で考えた通り、僕はパジャマでジャンケンをすることにしていたので、変にシワにならないようにその夜はTシャツと短パンで寝るのだ。(※8)
また、小ネタとして寝グセをつけることも忘れなかった。寝る前に髪の左半分を濡らし、ムースで立たせて、更に左を下にして眠るのである。

午前4時半、2人は起床した。
寝グセは…立ってる。ヨシ。
顔を洗って歯を磨いて、そして僕は「パジャマに着替えて」、1階のロビーへと降りて行った。

全員が揃うまで僕は少しビクビクしていた。それは別にパジャマの恰好が恥ずかしいといったことではなく、もし誰か他の者がやっていたらネタとしてはダメだと思っていたからである。(誰がやるか、そんなこと!)
結局誰もパジャマなんぞ着てこなかった。僕はホッとした。

赤信号の渡辺さんの話の後、トメさんの登場。
「ゲ!」
彼の姿を見て一瞬血が凍った。トメさんはパジャマを着て登場したのである。
「こんなところに敵がいた…」
ガッカリである。

2人のやり取りの後、予選が始まった。
様々な「怪情報」(※9)が飛び交っていたが、形式はやはりジャンケンであった。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

※1 千葉在住の先輩、佐原さん

佐原恵一さん。RUQSの偉大な先輩の1人で『アタック25』でパーフェクトを達成した人。RUQS第2代会長でもある。

※2 かの瀬間さん

瀬間康仁さん。RUQSの偉大な先輩の1人で、『第12回アメリカ横断ウルトラクイズ』の優勝者。RUQS第4代会長でもある。

※3 日本テレビの集合時間は午後7時

ウルトラクイズでは成田空港は「出発地」ではなくあくまでも「解散地」である。
ジャンケンに出場する全員はまず前日に麹町の日本テレビに集合し、そこから成田エアポートレストハウスに向かうのだ。

※4 まずはパチンコ屋へ

四谷にあったパチンコ屋。ってそんな情報はいらんか。

※5 僕が出場を辞退したという「怪情報」が流れていたのだ

僕が入院している2週間の間、実にたくさんの人が見舞いに訪れてくれた。
当初は僕も「辞退だろうなあ」と本気で言っていたので、その頃に来てくれた人は「どうもダメらしい」と言っていたみたい。そこ発信の情報が独り歩きしていたのである。

※6 早めに手を回しておくのがいい

『第13回』ではそれをやらなかったので困ったのだった。いまだに何人の方の消息がわからない。

※7 夜更かしをするのも何なので

正木は同世代でしかも同じ関西人ということで最初から意気投合した。『第13回』でできた僕の最初の友人ということになる。

※8 その夜はTシャツと短パンで寝るのだ

これねー、やられたと思ったことがあったのよ。
放送後にもらったファンレターの中に、ここを突いてきた女の子がいて、「起きたまま、と仰ってましたが全然シワになってなかったですね」と書いてきた。
よく見てるなー、と思った。すごいねー。

※9 様々な「怪情報」

今回、この原稿を読み直してみて、やたらに「怪情報」という言葉を使ってるなあ、と思ったのだけど、そういや『第13回』のツアー中は、この「怪情報」が流行語だったのだった。
今回のウルトラツアーでは、「到着地がニューヨーク」ということ以外の情報は我々挑戦者にはほとんど知らされず、ひょっとしたらその「決勝はニューヨーク」ですら疑ってかからないといけない状況だった。
情報がない我々はあらゆる方法や些細なヒントから「予測」をすることを始めた。最初は「明日がドロンコやで」みたいな他愛もないものだったのだが、そのうち「ゴールドコーストは実はアフリカのガーナ」とか「このあとジャングルに放たれる」とか、みんないろんなことを言いだした。当然半分は笑かしのネタとして。
これらネタ情報に加えて正しい情報を捻じ曲げて解釈したもの(たとえば「次はモーリー」って正式発表しているのに「あれは森の中で迷子にさせるっていう意味だ」みたいな)を総合して「怪情報」と呼んでいたのだった。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

対戦はエントリーナンバーの1番対104番、2番対103番、3番対102番…と、順に行なわれた。
半分以上の対戦に僕にとっての知り合いが出ていたのでかなり面白いものがあった。
勝った時の顔、負けた時の顔。人間の性格は本当に十人十色なんだなあと痛感してしまう。

稲川さん(※10)や秋利(※11)は勝ち抜けられたが、優勝候補の一角だった青木紀美江(※12)や羽賀さん(※13)、そしてもし抜けていれば200%機内ペーパーでトップになるであろう仲野(※14)は敗れて行った。

そうこうしているうちに44番対61番になった。同室の正木の登場である。
「正木、勝てよ…」
僕は心の中で祈った。
正木とは昨夜約束をしていた。絶対に勝ち残ってグアムでナンパをしようと。
ジャンケン、ホイ!
正木は勝った。手を振って彼は奥へと消えて行く。

「さあ続いての対戦です。」
僕は荷物を持ってステージに上がる。
さあいったいどういう振りが来るのだ、と思っていたらいきなり、
「こちら、第11回チャンピオン、稲川良夫の師匠格に当たる、今日本で最もクイズの強い人です!」
オイオイオイオイ。確かに僕は東京ドームの予選後のアンケート(※15)にあった「今回の通過者の中で知り合いは誰ですか」の質問に、
「稲川良夫と師弟関係を結んでいます。ただし僕が師匠」
とは書いたが、あれは全くのシャレだ。誰が好き好んであんなオッサンと師弟関係を結ぶかい!
と思いながらも僕はニコニコしていた。
そんなことより僕はどうやって笑いを取ってやろうかということばっかりに真剣だった。
それはテレビの前の視聴者ではなく、ここにいるみんなを笑かすことである。

「ところでどうしたんだこの格好は?」
「今日、朝起きた瞬間に『自然体で行こう』と思いまして、それでその朝の自然のまま来ました。決して病院を抜け出したわけではありません。」
そこにいるかなりの者が僕が病院を半ば脱走してきたのを知っているため、変に笑いが取れた。
ヨシっ、僕はやはりアガっていない。
一層気分が楽になり、妙に勝てると思えてきた。

僕の相手は東大2年生の鰐渕広一郎(※16)だった。彼は東大クイズ研の者で前に『アタック25大学対抗サバイバル戦』(※17)で見たことがある。
「それでは行くぞ。ヨーイ」
「ジャンケン、ホイ!」
僕は負けた。
普通ならここで焦るはずだろうが、何故か全く僕は焦らなかった。

「ここを勝たないとニューヨークはないぞ長戸!」
トメさんが励ましてくれる。

「ジャンケン、ホイ!」
「ジャンケン、ホイ!」
勝った。連続して勝ったのだ。僕は逆転し、いきなりリーチをかけた。
「ジャンケン、ホイ!」
パーでアイコだった。
「ジャンケン、ホイ!」
またパーでアイコ。

アイコが2回続いた後に人間の性格が出るという。
僕はここで鰐渕は僕の心を読んでくるだろうと考えた。
「多分オレがパーに対するチョキを出すと考えるだろうから、奴はグーを出すはずだ…」

「ジャンケン、ホイ!」
僕はパーを出した。鰐渕はグーだった。

勝った!僕は勝ったのだ。
「絶対ニューヨークへ来いよ!」
「はい、行きます!」
トメさんとガッチリ握手をして、僕は奥へと向かった。

先に抜けた連中がそこにはいた。
僕が姿を見せると一斉に「オー!」という声が上がった。

「おめでとうございます。」
正木が祝福してくれた。
「正木、ウルトラナンパツアーのスタートやで!」
僕らは抱き合って喜んだ。

僕の後からも勝者はやって来る。
50番の永田さん(※18)、52番の谷中(※19)も姿を見せた。
「やった、やった!」
結局うまい具合にというか何というか、ドームで一緒に走った仲間もRUQSの面々も半分になってしまった。

出発時刻は10時の予定なのでまだまだ時間があった。僕ら勝者52人はバスに乗って空港へと向かった。
僕らが空港のロビーで時間を持て余している頃、ジャンケンの会場では敗者復活戦が行なわれていた。
形式は早く泣いた方が勝ちというもの。ただし、目やその周辺は触ってはいけない。
『一杯のかけそば』が朗読されるのを聞いたり、スプーン1杯のワサビを舐めたりしつつみんな頑張った。生き残るのは3人だ。

果たして数分後、その3人は決定した。
東京の銀行員でミッキーマウスの耳をつけて目立っていた鈴木香ちゃん(※20)、会社員の加藤安司さん(※21)、そして何とRUQSの恒川岳久(※22)である。

一方僕らは手続きを済ませ、もう既に飛行機の中に乗り込んでいた。
「敗者復活戦あったんかいな。」
などとみんなで話しているその時だった。
「復活の3人です。みなさん拍手を!」
トメさんの声に迎えられた3人の登場である。

先頭を切って恒川が入ってきた。
RUQSの連中はそのあまりの唐突さにみんな大笑いした。
何はともあれよかったよかった。これでRUQSは7人だ。夢の3連覇へ向けてのスタートである。

ドアが閉められ飛行機は動き出した。
僕らは遠くにいる敗者に手を振りながらも心の中はざまあカンカンという気持ちで一杯だった。

機体はどんどんスピードを上げて行く。
今まさに車輪は地上から引きちぎられた。
出発の時だった。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

「成田のジャンケン」では僕は全くアガってなかったんだけど、実は他のみんなも想像以上に緊張していなかったんではないだろうか。

その理由を考えたら、「景色」にあるのではないかという結論に達した。

つまり、普通テレビでみる「成田のジャンケン」の風景は、トメさんの前にランプがあって、さらにその手前にジャンケンの2人がいる。そしてトメさんの後ろにはアメリカ大統領の支持者のように挑戦者が対戦を見ている、といったものだろう。

もしこの朝、見慣れたそんな風景を目にしていたらいろんな思いが湧いてきてドキドキしたのかも知れない。しかしながら実際には我々は始終トメさんのケツを見ていただけで(笑)、ジャンケン自体も遠くでやってるなーって感じがしていた。
さらに、これが大きいんだけど、ジャンケンの対戦の向こうにはスタッフが雑然としていて、そのバックがガラス張りでむちゃくちゃ明るいのだ。
つまり僕らは全てを逆光の状態で見させられていたのだった。

結論として、成田での出来事は「逆光でよくわからなかった」が正解なのである(笑)
寝起きでもあるので、これでは緊張もしないだろう。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

※10 稲川さん

稲川良夫さん。RUQS創始者にして初代会長。『第11回アメリカ横断ウルトラクイズ』の優勝者でもある。先輩として偉大だったかどうかはまた別の話(笑)

※11 秋利

誰やお前。

※12 青木紀美江

元東大クイズ研。『アタック25』年間戦でのパーフェクト達成など数々の金字塔を打ち立てたクイズ女王。実は僕のデビュー戦である『アップダウンクイズ新高校生大会』に出場していた。人生で初めてとなるクイズを通じて知り合った友人の1人。

※13 羽賀さん

羽賀政勝さん。敬愛するクイズの先輩。当時旅行代理店にお勤めで、僕の南米旅行ではむちゃくちゃ世話をかけてしまった。もし2人ともジャンケンに負けたら一緒に旅行にでも行こうか、と話していた。ジャンケンでは田川さんに敗北。

※14 仲野

仲野隆也。名古屋大学クイズ研OB。当時行われていた「学生クイズ日本一決定戦」、通称「マンオブザイヤー」の86年のチャンピオン。(ちなみに僕は88年のチャンピオン) 初参加の85年と86年の2年連続で予選3択の1位を獲得。

※15 東京ドームの予選後のアンケート

ドームを突破すると勝者は全員ドーム近くのビル(黄色いビル)で説明会を受ける。
その時に書かされるのがこのアンケート。ちなみにこの直前に全員に配られるのがいわゆる「勝者弁当」で、もしも現代ならみんなこぞってSNSに写真をアップしているだろうと思われるシロモノである。

※16 鰐渕広一郎

パン好き。

※17 『アタック25大学対抗サバイバル戦』

1988年12月に収録、翌年1月に放送。「アタック25 700回記念」の一環での特番だった。我がRUQSと早稲田、東大、法政のクイズ研各25人による一大バトルで、当時現役バリバリだったメンバーが多数登場している。『第13回』のメンバーも多くいて、僕や永田さんだけでなく及川も参戦している。パン好きの鰐渕もしっかり映っている。

※18 永田さん

説明、いる?

※19 谷中

谷中光寿。RUQSの仲間で同い年ながら大学では1つ先輩。RUQSが誇る偉大なる問題読み。ドーム予選での「たまげた」のワナに引っかからなかった7人のうちの1人。

※20 鈴木香ちゃん

グアムの砂浜でドロンコの待ち時間の間にツーショットでチャラけたポーズを決めている写真がある。そういや、「一緒に写真を撮って」ってお願いされたのだった。
つまりその後、何百回と言われるセリフを最初に言ってくれたのが香ちゃんだったということになる。

※21 加藤安司さん

早稲田のクイズ研出身。この2年前の年末の「マンオブザイヤー」のときにステージ上で声を掛けられたのが最初の出会いとのこと。すっかり忘れてた。そのときのカトちゃんの言葉が「アタック見てたよ」。僕の返しは「どうも」。

※22 恒川岳久

ご存じ「小学生のアイドル」。実家はなんと「ミックスジュース発祥の地」である喫茶店。そのことで最近NHKに出たらしい。やっとるなー恒川。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

あ、そうそう、ジャンケン関連のネタでまだ誰にも言っていなかったものを。

クイズを頑張っていた頃は、どんなものでも練習、勉強、経験ということで貪欲に吸収しようとしていた。
ジャンケンもまた同じで機会があればやっていた。

今はもうなくなってしまったけど、昔京都の北白川というところに24時間営業をしているバッティングセンターがあって、そこにはゲームセンターが併設されていた。
大学生になったころ、まだ5回生で在学していた稲川さんと夜中にバイクを飛ばしてこのゲームセンターによく行っていた。
そこにはジャンケンのゲームがあった。映像の外人の女の子とジャンケンをし、勝っていくと相手が服を脱いでいくというシロモノだ(笑)
外人好きは昔からだし、ジャンケンの練習にもなるというので僕は必ずそのゲームをしていたのだ。

で、これがまた強い。全然勝てないのである。
当時のそのゲームは精巧なものには見えなかった。彼女たちがジャンケンをする映像が最初から最後までスムーズだったということは、つまりは僕がパーなりグーなりのボタンを押す前にゲーム側の手が決まっているということを意味した。
このゲームの制作者は何かしらジャンケンに対する独自の規則性や、下手したら膨大なデータから何かを編み出したのかも知れない、そう思えるほどにこのゲームはジャンケンに強かった。

しかしながら僕は絶対に法則性やバグがあると確信していた。
そして何回かやっていくうちにある法則に気が付いたのだ。それが「アイコ2回連続の次」というものだった。
このゲームではアイコが2回続くと、必ず3手目は「そのアイコの手で負けるもの」を出せば勝てたのである。つまり外人の女の子の服を脱がせることに成功するわけだ。

これがわかったときから僕は実際のジャンケンでの展開でも「アイコ2回連続」について注目するようになった。どういう雰囲気でジャンケンをしている人は3手目をどう出すか、みたいなのを研究したのである。
ジャンケン必勝法なんてのは存在しないとは思うけど、僕はここだけにはこだわっていて、実際にある程度の成果は出していた。
しかしその研究結果がまさかの成田で出るとは!
だからあの対戦でアイコが2回続いたとき、その時点で僕は「もらった!」と思ったのだった。

以上で「成田篇」は終わり。ちょっと長くなりましたね。
9月2日、同じ日に行なわれた「機内篇」は特別に明日9月3日の夜にアップします。

というわけで、この続きは9月3日の夜に。

成田の主役、かわいい後輩、恒川。何想う。