準決勝 ボルチモア (1989年9月27日)

170927

メンフィスから空路でワシントンへ向かう。そしてそこからボルチモア入りすることになった。

準決勝はもう間違いなく「通過クイズ」(正しい名前は「通せんぼクイズ」)であろうと思われた。
残り2つとなってしまったクイズも本格的な早押しだけになったのである。

この移動中に僕はとうとうクイズの勉強を始めた。(※1)
ツアーには何冊かのクイズ本や自作問題、RUQSの連中が作った問題など4000問ほどを持って行っていたのでそれまでも勉強をしないわけでもなかったが、それはもっぱら、1人部屋になった時か、永田さんや秋利と同じ部屋になった時ぐらいだった。

何故大っぴらに勉強をしかなったのかというと、とても旅自体が楽しく、いかにもクイズクイズしている雰囲気を出したくなかったのと、メンバーに妙な緊張感を与えたくなかったからである。
しかしこの3人を相手にしてはもうそんなことは言っていられない。今のままではとても安心して勝てそうになかったのである。ニュージーランドから続いている大スランプから一刻も早く脱出するためにはとにかく自分のリズムを取り戻さなくてはならないのだ。クイズが始まる時間はわからないから、常にエンジンのかかっている状態にしておかなければならないのである。
勉強、作戦、駆け引き。もはやこの連中には何でもアリなのだ。

ボルチモアに着いた夜、つまりクイズの前夜、久し振りにトメさんと数人のスタッフの方々と一緒に食事をした。クイーンズタウンで監禁状態にされていた永田さんにとっては初めての会食だった。
いつもの大会では準決勝の段階でトメさんから一緒に食事をしようと水を向けてくれることはないらしいのだが、今回は特別らしかった。
そういや前回の会食の後は1抜けをしたよなあ、と都合のいいことだけをジンクスと考える僕は密かに喜んでいた。

クイズ当日の朝がやって来た。僕は前夜に2時間ぐらいしか眠れなかったため、少し頭が痛い。

ホテルから、まだ知らされていないクイズ会場へとバスで向かう。
バスの中は閑散としていた。思い起こせばオーストラリアへ初上陸した時、僕らはシドニーからゴールドコーストまで15時間ほどもバスで旅をした。あの頃は1台のバスに24人も乗っており賑やかなものだった。2人で座っていたイスもあったぐらいである。
1人減り、また1人と、仲間は次々に消えて行った。今やバスの中は空席が圧倒的である。このバスの席の空き具合と食事の時のテーブルの大きさはこの旅の宿命を象徴的な形で物語るのである。

ボルチモアへ向かうこのバスの中で戦いはすでに始まっていた。
いつも通り田川さんは左側の一番後ろの席で静かに目を閉じて座っている。(※2)
いつも通り永田さんは左側の中程の席でウォークマンで何も入っていないテープを聴いている。
いつも通り秋利は左側の前の席で口笛を吹いている。流れてくる曲はいつもの通り『ブルー・ライト・ヨコハマ』だ。
みんな自分なりの方法で精神を集中させている。

そして僕もいつもの通りだった。前から3分の2ほどの右側に座り静かに祈りを続けていた。

まずマルタの写真を取り出し見守ってくれるように祈り、次に体力が持つようにと自分の体に祈る。そして『第13回』に夢を抱き参加したが志半ばにして倒れて行った友人たちの名前を順番に唱え勝利を誓う。
最後に再びマルタの写真を胸に当て目を閉じるのである。

クイズ会場はフォートマクヘンリー砦という所だった。緑の芝がとても美しい場所だ。
早押しテーブルは合計5つ用意されていた。やはり通過クイズである。
僕はこの戦いにあのオールブラックスのユニフォームを着て出場することにした。何故かと言われても自分自身よくわからない。(※3)

「懐かしいねぇ」
僕の姿を見てトメさんは言った。
たしかに懐かしかった。ニュージーランドでの出来事など、もう何年も前のことのような気さえする。

収録開始。まずはトメさんのコメント、そして僕らとの対応が始まった。

いよいよ戦いが始まるのだ。僕はこの勝負にあたり作戦を考えていた。
3人に対する分析はこうである。

秋利:
・得意分野は文学、歴史、美術。これは全く僕と同じ
・同い年でクイズのキャリアもほぼ同じ
・指はそんなに早くないが知識量は多いので甘くみてはいけない
・勝負強いとは言えない

永田さん:
・得意分野の科学、スポーツ、不得意分野の歴史は僕と全く逆
・本格的にクイズを始めたのがそう古いことでない(※4)にも拘らずあの実力を作り上げるには実戦で問題をこなした以外考えられない。したがって一度出された中〜難の問題、そして時事問題には極めて強い
・しかし一方では僕や秋利と違って問題集に出てくるような基本問題にはまだ穴がある
・今回のウルトラに相性がよく、合計3回の1抜けを果たしている
・時折指が暴走する。ヒューゴ永田には絶対に巻き込まれてはいけない
・勝負強い

田川さん:
・得意分野は多分科学。後はよくわからない
・正確なクイズのキャリアは知らない
・今まで完全なノーマークだったので得意な戦法など何もわからない
・指は極めて遅い。つまりそれは解答権を取ったら100パーセント正解する、ということを意味する
・ラス抜けのプロ。これを勝負弱いと言っていいのか勝負強いと言っていいのかわからない

メンフィスで1抜けを果たした田川さんを僕はターゲットにした。とにかく彼にはどんなことがあっても解答権を与えてはいけないのだ。
これは後の2人も考えていたようで、ここへ来て田川さんは一躍優勝候補の最右翼となってしまった。眠れる獅子が目を覚ましたようで、僕らは3人ともビビってしまったのである。
獅子を再び眠らせるためには超早押しの世界を展開させなければならない。3人の思惑はその点では一致していた。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

※1 この移動中に僕はとうとうクイズの勉強を始めた

ワシントンへ向かう機内から僕は勉強を始めた。途中、トイレに立ったトメさんが僕の近くを通るときに、とても優しい、柔らかな笑みを浮かべてくれていたのがとても印象に残っている。

※2 いつも通り田川さんは左側の一番後ろの席で静かに目を閉じて座っている

この左右はバスの中から運転席に向かってのもの。
左側に3人、右側に1人が座っているという状態だが、これはいつの段階からか指定席のようになっていた。

※3 何故かと言われても自分自身よくわからない

当然わかっています(笑)
「準決勝=ネクタイ」「決勝=パジャマ」は最初から決めていたのだが、メンフィスを準決勝と間違ってしまったのでネタが狂ってしまったのである(笑) 
で、それまで着た服の中で一番思い入れが強いものにしようと考えてオールブラックスにしたのだ。サーファーズパラダイスとも迷ったが、今はオールブラックスで正解だったと思っている。

※4 本格的にクイズを始めたのがそう古いことでない

永田さんもクイズ出場自体のキャリアは浅くなかったが、大阪大学ではクイズ研ではなかったので(当時はまだ存在してなかったかも知れない。もしあったのなら僕が知らないだけだ。阪大OBの人、すまぬ)、どうしても趣味の域を出ていなかった。
1986年12月5日、その年の「マンオブザイヤー」に出るために乗った電車の車内で僕は秋利と初めて会ったのだが、実はこの翌日の12月6日、ホノルルクラブの合宿先で永田さんと初めて会っている。僕らは意気投合した。翌日一緒に関西へ戻るその電車の中で僕は彼をRUQSへ誘ったのだ。彼がハードにクイズをやるのはこの日からなのである。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

戦いの幕は切って落とされた。
僕はいきなり。2問を間違え、マイナス2からのスタートとなった。
「よし、これでええ。」
間違えているということは僕にとっては調子がいいということを意味する。本当に調子の悪い時は解答権さえ得られないのだ。
指のリズムも悪くない。僕はだんだん自分のプレースタイルを思い出して来ていた。

最初にお立ち台(通過席)に立ったのは永田さんだった。
理系の問題が出題されて僕や秋利は手も足も出なかったが、田川さんがいつも通りゆっくり押して正解。永田さんの通過を阻んだ。

永田さんと田川さん、そして僕と秋利はそれぞれライバル扱いされていた。シドニーのラス抜け争いと、大声クイズが原因である。
だが実際はもっと深いものがあった。この2組はともに学年が同じペアであり、クイズの得意ジャンルも同じなのである。しかもその得意ジャンルがもう一方の組とは全く相容れないものなのだ。大雑把に分けて、理系なら永田さんたちが、文系なら僕らが得意、という感じで。
こういったことは4人とも理解していたから、もし永田さんがお立ち台に立つと田川さんに、秋利がお立ち台に立つと僕に阻止の期待が異様に集まったのである。

とにかく激しい攻防が繰り広げられた。
早押し席では完全に近い状態を取り戻した僕が引っ掻き回していた。(※5)
ターゲットの田川さんはあまり解答権を取れずにいた。

お立ち台にはみんな代わる代わる立っていたが、ここでの作戦はさまざまだった。
秋利は「攻め」のクイズに徹した。永田さんもお立ち台ではどんどん攻めてきた。
僕は2人とは全く逆だった。早押し席とは別人のように「守り」のクイズを展開していた。
その結果、2人は自滅が多かったが、僕はほとんど3人に阻止されていた。

田川さんは何を考えていたのかわからなかったが、多分普段通りだったのだろう。
だけど僕らは田川さんがお立ち台に立った時が最も怖かった。
たとえどんな問題であろうと、彼のハットが上がった瞬間にニューヨーク行きの切符は「残り1つ」となるからである。
だから僕ら3人は田川さんに問題を聞かせない攻撃に終始した。彼がお立ち台に立つと僕らのマイナスは確実に増えたが、何問かに1問命中するミサイルで田川さんは抜けられなかった。

クイズは延々と続いた。
全員で15回はお立ち台に立ったが、その都度自滅したり阻止されたり。一進一退、まさに白熱した戦いだった。

「ストップ! よし、ここで休憩を入れよう!」
トメさんが言った。
どうやらカメラのテープチェンジをするようだった。
クイズ開始からすでに40分が経っていた。
問題数も140を突破し、用意した問題も底をついたようで、トメさん、ディレクターの加藤さん(※6)、トマホークの萩原さん(※7)らは向こうのテントで新しく問題をおろす作業をしている。

一方僕らはというと、ハットを脱ぎ、早押し席の近くでスタッフが用意してくれたコーヒーなどを飲んで談笑していた。
クイズから離れると敵から一瞬で最愛の仲間の顔に戻るのである。

スタッフはそれまでは藤原さんなど、一部を除いては僕らと接触してはいけなかったのだけど、この休憩中はいろんな人が話しかけて来てくれた。なかには「オレはお前を応援してるからな!」「頑張れよ」と、4人それぞれに谷町的な人がいるのがわかった。(※8)

ほどなくしてトメさんがテントの方からやって来た。
「剣道の試合を見ているようだよ。」
「13年のウルトラの歴史で最高の戦いだ。」
と最高の賛辞をくれた。


休憩中に撮影された貴重な1枚。
こういった写真が撮れてしまうラッキーさが
『第13回』ならではなのだ。

1時間以上の休憩の後、クイズは再開された。
4人ともすぐに戦士の目に戻る。

僕はここで一気に畳み掛ける作戦に出た。攻めて攻めて攻めまくるのである。
1度お立ち台で阻止されたが3問連続で正解を出して再びお立ち台へ。10回目までは数えていたが、ここに立つのはもう何回かわからなくなっていた。
そして問題。
「ジュリアス・シーザーが紀元前58年から50年にかけて遠征した / 時の著書…」
ちょっと遅かったかな、と思ったが僕のハットが上がっていた。ラッキー!

トメさんはじっと僕を見ている。

「ガリア戦記!」
世界の時が止まった気がした。
トメさんは何も言わない。
や、ヤベェ。ミスったか?

一瞬の後、トメさんは叫んだ。
「正解ーっ! 1抜け、ニューヨーク!」

やったー!
ニューヨーク!ニューヨーク!ニューヨーク!
オレはホンマにニューヨークへ行ける!
さあこれで残る席はあと1つである。この席は一体誰のためにあるのか!

永田さんと秋利の激しいせめぎ合いが続く。
が、とうとう永田さんが3ポイントを獲得してお立ち台へ。
気合いがみなぎっていた。怖いぐらいだった。

「中国では強精薬とされ料理にも使われるもので、冬の間は虫で / 夏になると…」
永田さんのハットが上がった!
「来たか…」
僕は思った。

「冬虫夏草!」
「おめでとう!決定ーっ!」

敗れた2人に手を振り、永田さんが駆け寄って来た。
そしてがっちりと握手。
東京ドームの1問目の直後で、グアムの逆ドロの後で、ゴールドコーストの部屋で、クイーンズタウンのクイズ直前で、チムニーロックの駐車場で、ずっとずっと感じていた手のひらの感触がそこにはあった。

水入り後の戦いはたった10問ほどで決着がついた。長く激しい戦いのあっけない幕切れだった。

田川さんと秋利。どんなことがあっても絶対に負けなかった2人がとうとう敗れてしまった。
田川さんの敗因はやはり徹底されていた田川マークである。ひょっとすると彼の事実上の敗因はメンフィスでの1抜けかも知れない。

秋利は密かに策を練っていた。
彼は自分が長丁場に弱いことを知っていたので前半攻めまくっていたのである。しかし攻め切れなかった。そこへさしてあの休憩である。これによって彼の緊張の糸は切れたという。休憩中、彼は自分の負けを予感したらしい。

僕らの勝因はまさに秋利と反対で、あの休憩にあったのだ。
大学を出て昔のようにクイズに接していなかった2人に対して、僕らは少なくとも月に1度はハードにクイズをやっていたのである。

休憩中のテントでのスタッフ会議では、もしあと50問やって誰も抜けられなかったらその時は4人でニューヨーク、という話もあったそうだが、結局勝者2人は決定した。

残る敵は永田さんだけである。しかしRUQSのウルトラ3連覇はこの時点で決定したのだ。
一緒にニューヨークに行こう、という成田での約束は現実のものとなったのだ!

敏腕ディレクター加藤就一さん、ボルチモアの収録直後に日本へ電話。
5週目の放送枠を2時間に拡大することに成功する。(※9)

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

※5 完全に近い状態を取り戻した僕が引っ掻き回していた

これはゲームの途中で明らかにプレースタイルが変わった。
放送でもあった「牽牛星は彦星のことですが、牽牛花といえばどんな花?」という問題で僕は間違ってしまう。早く押しすぎての誤答だったのだが、この「押し」の瞬間に僕の脳と耳と指が完全にくっついたのだ。ガクンという音がして何かがハマったのがわかったぐらいだ。

※6 ディレクターの加藤さん

加藤就一さん。

※7 トマホークの萩原さん

萩原津年武さん。ウルトラの問題の総元締めという感じの方。『第13回』ではゴールドコーストのビデオレターのところで映っておられる。最近では『ウルトラクイズの裏話』というブログも人気。

※8 4人それぞれに谷町的な人がいるのがわかった

まさか、握ってたのかー?(笑)

※9 5週目の放送枠を2時間に拡大することに成功する

これを僕が伝えられたのはニューヨークの決勝の翌日だったと記憶している。「5週目、2時間になったぞー」とニコニコして話しかけてくださった。先月(2017年8月)、その話を改めて加藤さんに伺ったが、やはり当時、編成とは結構モメたらしい。でも押し切ったのはさすが。大英断である。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

「ボルチモア」は、途中の休憩時間を含めて確実に2時間はやっていた。問題数は優に150問を超えるという長丁場だったのだけど、全く疲れが感じられなかった。
クイズ形式ではトマト戦争がダントツに楽しかったのだが、クイズそのものはこのボルチモアが最高に楽しかったからだ。

ウルトラのツアーに行きたいと思っていた人はたくさんいたと思う。旅行自体がとても楽しそうに見えるから。実際のところ、その考えは正しい(笑)
でもちょっと足りない。あなたが思っている数万倍もウルトラツアーは楽しいのだ。

ツアー中の僕らにとって「クイズをする」ということは確実に誰かと別れてしまうその原因であり、自分にとって旅が終わる悲劇を生む可能性を孕んだ手続きでしかないのである。
クイズが好きで得意なはずの我々クイズ研の人間でさえそう思うのだ。クイズさえなければいいのになぁ、って。

しかしこのボルチモアは違った。
純粋にクイズが面白くて面白くて夢中になれたのだ。
旅行の部分だけでなくクイズそのものの部分が楽しい。この日僕らはそんな奇跡のような時間を過ごしたのである。
秋利は負けた後のインタビューで「こんなに楽しい日はない」と言ってたが、その理由はこれなのだ。曵かれ者の小唄ではないのである。

ところでボルチモアの前夜の部屋割りは何と、「田川・永田」「長戸・秋利」だった。当時は変に思わなかったが今改めて考えると何故なんだと思う。ライバル扱いしてたんちゃうんか?(笑) 一緒にしたらアカンでしょ。クワガタムシでも違うケースで飼うで(どんなたとえや)

準決勝前夜で同室になった僕と秋利はとにかく話をした。いろんなことを。
そして当たり前のことなんだけど、お互いどんなことがあってもニューヨークに行こうと誓い合っていた。

僕は『第13回』のツアーを、「映画を撮影している」というつもりで時間を過ごしていた。だからスタッフを仕事仲間とも思っていたし、挑戦者は共演者でもあった。もちろん僕は主役なんだけど(笑)

そのストーリーがもうすぐ完成する。そんな僕のこの段階での筋書きでは、決勝の相手は秋利だったのである。

僕以外の3人のうちでクイズが最も強かったのは間違いなく永田さんだった。群を抜いていた。だから決勝においてクイズ的な見応えは永田さんとしかできないとは思っていた(この時点ではそう思っていた(笑))。
でも僕の相手はあくまでも秋利だったのだ。
なぜなら、僕としてはこのツアー中で(意図はしなかったが)張られていた伏線を回収しなければいけないと思っていたからだ。

で、ここからはとっておきの話である。

このツアー中、秋利は腕などにハチマキを巻いていたのをご存知だろうか。
ボルチモアで負けた後、涙を拭ったあのハチマキである。

放送ではあれがクローズアップされることはついになかったが、あのハチマキには猫の絵が描かれていた。ではその猫の絵を描いたのは誰か。正解は村田栄子さんである。

村田さんといえば『今世紀最後』のウルトラでスカイダイビングをしたスーパーマダムとして知られているが、クイズ界的には超が100個ほどもつく有名人で、出場歴や戦績などは僕なんかは逆立ちしても追いつかない。

秋利が日本を出る前に、これを持って頑張りなさい、と村田さんから直々に渡してもらったのがあの「猫のハチマキ」なのである。

で、その「猫のハチマキ」だが、実はこの世にもう1本存在する。
それを持っていたのが他ならぬ僕だったのだ。

高校を卒業し18歳で単身東京で暮らしていた時、僕はホノルルクラブに入会させていただいた。その時の会長をなさっていたのが村田さんである。
例会場所から帰る方向がたまたま一緒だったため、毎回僕は村田さんが運転する車の助手席に座るチャンスを得ていた。2人きりとなっているその車内ではクイズの歴史からクイズ界の問題まで、実に様々なことを教えてもらったし、聞くことができた。京都の一高校生だった僕にとってクイズの世界が一気に開けた時間だった。
だから村田さんは僕にとっては紛れもなく「東京の母」であり、「クイズでの母」なのである。

僕が南米から帰国してドーム予選を突破した後、村田さんは僕にも頑張りなさいという意味でハチマキを渡してくれたのだ。長戸君と秋利君に作ったのよ、と。

僕はそのハチマキをどのタイミングで出すか、ツアー中ずっと考えていた。
物語的には僕と秋利は罵り合って勝ち進んで行っているというプロレス的スタイルが面白かったし、また僕のマスコットとしてはマルタがいたので重複するのも変だとも思っていた。
でもハチマキを出す最高のタイミングがとうとう見つかったのだ。それがニューヨーク決戦なのである。

僕がそれまでずっと気にしていたのは、ショットオーバー以降、放送では秋利は敵役になってしまってるんじゃないかということだった。
前にも書いたが実際ウチの叔母ですら「あの秋なんとかさん、嫌いやわー」とか言ってたぐらいだからね。
僕が回収したかった伏線とはその部分なのである。

ニューヨークの船の上では番号が若い秋利は下手に座る。インタビューの時にハチマキをポケットから出し、それを腕につける。
続いて上手の僕がインタビューを受ける。その時、おもむろにポケットからハチマキを出し腕につけるのだ。全く同じハチマキが2本。そこで「実は2人は友人で…」という謎解きが為されるという展開を作りたかったのだ。

なのにあのアホは負けやがって(笑)
で、とうとう僕のハチマキは日の目を見ることはなかった。
でも実はいつもバックパックのポケットの取り出しやすいところには入れてはいたんだけどね。

僕が望んだ筋書きでは相手は秋利だったんだけど、スタッフ的には、特にトメさん的には、決勝はどうも田川さんと僕をやらせてみたかったようだった。それは前夜の会食の時に感じたし、日本で聞いてもそう仰ってた。
もちろんクイズはガチなので、あくまでも見たかった、という話ではある。

ただ僕にとっては申し訳無いけど田川さんとニューヨークをやるイメージは全くなかった。
それはボルチモアが間違いなく早押しの世界になるのがわかっていたからだ。
しかし事実は田川さんは2度もお立ち台に立っているので、ニューヨーク行きのチャンスは十分にあったのだった。

もし田川さんとニューヨーク対戦をしたらどうなっていただろうか。
今になって考えてみると、ひょっとしたら一番ヤバい展開になっていたかも知れない。だってあまりにも得意不得意ジャンルもプレースタイルも真逆だからだ。

ただ、だとしても僕は勝っていたと思う。
なぜならばいくら点数的に追い上げられても、途中からでも田川さん用に僕がプレースタイルを変えて対応していただろうからだ。なぜなら田川さんのことはもうすでに分析済みだったのである。メンフィスで全てがわかったからね。

「田川君の敗因はメンフィスで1抜けしたことだろうな。」
これはサンフランシスコでのバーでトメさんが僕に言ってくれた言葉だったのだ。
そして僕は返した。
「ですね。」

というわけで、いよいよニューヨーク決戦!永田さんへの思いはそのときに。
明後日、29日の夜にお会いしましょう。


ゲーム直後の敗者2人。
撮影したのは永田さんである。凄いなーホントに。