決勝 ニューヨーク (1989年9月29日)

170929

秋利と田川さんを残し、すぐに僕らはバスでニューヨークへ向かうことになった。
ボルチモアの戦いは自分たちが感じていた以上にハードだったらしく、2人ともすぐに眠りについてしまった。

バスに揺られること4時間。気がつくとそこは黒い街だった。

「ニューヨークや…」
僕らはとうとうニューヨークへとやって来たのだ。

宿泊地は52丁目のシェラトンホテルだった。
いつものように荷物を持って部屋へと向かう。
「今夜は久し振りに一人部屋かー」
ニューヨークのホテルの部屋は別々だといつも決まっていたからだ。

ところが! 何と今年は2人一緒の部屋ということになっていた。
まあ永田さんなら部屋が一緒であろうとなかろうと気を置かなくていいので良かったが、もし他の者だったら決勝前に同室というのは全く嫌だっただろう。

夕食までにはまだ時間があったので僕らは街を見に行こうということになった。目指すはエンパイアステートビルである。
地図を見ず、時折建物の間から顔を覗かせるそのビルを目標に僕らは走った。
目的地は意外に遠く、僕らはかなり汗をかいてしまった。

エンパイアステートビルへ登る。最上階へは行けないがかなりの高さの所で展望はできた。
とにかく風が強かった。最初に目に入った空は夕焼けの赤と濃い紺と淡い茶色を混ぜたような不思議な色をしていた。
僕らは柵まで近づき、下を見下ろした。
思わず息を飲んだ。覗き込む僕らを突き刺すように数多の摩天楼がそびえ立っていた。
生命を持たないただの街が、そこでは間違いなく動いていた。


これがそのときに撮った写真。
今はもうないツインタワーが見えている。

パンナムビルが見えた。かつてのウルトラクイズの決勝地である。
今から12年前、あの屋上で松尾さんが踊った。僕をクイズにのめり込ませた瞬間である。
パンナムビルは12年の時間をかけて僕をこの地へ呼び寄せたのだ。

「来ましたね。」
「うん。来たな。」
やはりニューヨークに夢をかけていた永田さんも感慨深げだった。

その夜は3度目となるトメさんたちとの会食だった。
明日の決戦についてのいろいろな話をする。
例年、決勝ではスーツを着ることになっていたが、僕はどうしてもそれが嫌だった。
実は僕には中学生の時から、もしニューヨークへ行けたらこれを着ると考えていたものがあったのだ。それは紋付羽織袴だった。

このことはずっと僕は言い続けていたことで、RUQSのみんなは誰もが知っていた。だがそれはもうできないのだった。というのも前年の『第12回』の決勝で先輩の瀬間さんがこの紋付羽織袴を着てしまったからである。放送ではカットされたが、「何故それを着ようと思ったのですか?」というトメさんの問いに瀬間さんは「これは実は後輩のアイデアなんです。ごめんな長戸。」と言ったらしいのだ。

「明日、絶対にスーツを着なくてはダメですか?」
トメさんは一瞬考えた後、
「いいよ、お前の好きにやっていい。」
と、力強く言ってくれた。

ホテルへ戻り日本に電話を入れる。
家族と、RUQSの窓口になっていた後輩の関口(※1)である。
ここへ来て僕はこいつからとんでもないことを聞かされた。なんでも女優の宮﨑美子様がご結婚あそばされたというのである。
発表があった時期は9月頭だったらしい。つまり僕らがグアムにいた頃だ。僕が彼女の大ファンであることを知っている僕の家族もRUQSの後輩も友人たちも、別に口裏を合わせたわけじゃなく、それぞれが僕に気を遣って黙っていたのだ。

だが関口など一部の後輩連中は違ったようである。この話をニューヨークの前夜にバラそうという壮大な計画を立てていたのだ。首謀者が瀬間さんだったという事実はさておき、この彼ら一流のジョークは間違いなく僕の戦闘意欲をそいだ。公衆電話の受話器を握りながらその場にへたりこんだぐらいだから。
電話を代わった永田さんが「関口、よく言ってくれた!」と叫んでいたのが今でも忘れられない。
まったく、RUQSは生き馬の目を抜くようなところである。

決戦の日がやって来た。

午前中は市内観光をしようと思っていたが昨夜のショックがまだ尾を引きずっていたようで僕はベッドから起き上がれなかった。

ヘリコプターの撮影は午後からだ。あのニューヨークの試合前に流れるヘリコプターの映像である。
ヘリポートに着いた僕らをトメさんが迎えてくれた。先にトメさんだけのパートを撮っていたからである。
「いいコメントを言っておいてやったからな。」
「ありがとうございます!」
トメさんを見送った後、僕らは2人別々のヘリコプターへと乗り込んだ。最初数分の間、2機は時には低く時には高くと、摩天楼をなめるように飛んだ。

いよいよ自由の女神へと向かうことになった。
ヘリコプターは海へ向かってどんどん進んで行く。
ついに女神が見えた。

「女神や…」
そこには紛れもない正真正銘の自由の女神が気高く立っていた。

ヘリコプターは彼女の周りを旋回する。
始めは黙っていた僕だったが、彼女を見ていると急に今までのことが思い出された。
ウルトラクイズを知ってただ単に憧れていた頃のこと、友達とクイズ本を買って来て問題を出し合ったり、早押し機を作って学校でクイズ大会をやっていたこと、自分が出た数々のクイズ番組やRUQSのこと、そして今年の南米のこと、東京ドームのこと、オーストラリアのこと、ニュージーランドのこと、そしてラマダクラブのみんなのこと…。
気がついたら僕は泣いていた。胸が一杯になるというのはこういうことを言うのだ。

クイズに賭けた青春は今まさに完成されようとしていた。
「もう何も思い残すことはないでしょう?」
女神が僕を見て微笑んだ。

ヘリコプターから降りると僕らは決戦場となるプリンセス号へと乗り込む。
船の上ではセッティングが進められれているようで僕らは下の暗い小さな部屋へと連れて行かれた。
そこは本当に真っ暗な部屋だった。全ての窓にガムテープが強引につけられていた。
これが決勝まで夜景を見せないスタッフの演出であることを知っている僕らは黙って座って待っていた。

試合開始までにはまだ時間があった。僕は普通だったが永田さんは少し緊張している様子だ。
「よし」
僕は鞄からオリジナルの問題集を目ざとく取り出し、露骨にクイズの勉強を始めた。もちろん、より永田さんにプレッシャーを与えてリラックスさせない作戦だ。
もう戦いは始まっているのである。僕にとって今、永田さんは最大にして唯一の敵なのだ。

「間もなくですから。」
スタッフから僕らに連絡があった。
僕は勉強をやめ、決勝用のコスチュームに着替えることにした。成田で着た、あのパジャマである。

パジャマに着替えた僕はいつも通り祈りを始めた。倒れて行った戦士たちの最後に秋利美紀雄の名前が加わっていた。

「さあ、上がってください。」
決戦の時が来た。
風が冷たいかなと思ったが、体はいつもより熱くなっていた。
薄暗い空に夜景が綺麗だ。
荷物を運び、とうとう2つとなってしまった早押し機へと向かう。
僕の恰好を見てトメさんは優しく微笑んでくれた。
そしてそのトメさんの後ろには今回参加したスタッフ全員が僕らを見つめていた。
「決勝なんやなあ…」
僕は身震いを抑えられなかった。(※2)

スタッフに一礼して僕らは席に着いた。
過去の決勝でスタッフに一礼して着席した例はなかったので、これは僕のネタとしてもあったのだが、それ以上に僕にはスタッフへ心からのお礼の気持ちがあったのだ。

いつもと違ってトメさんはゆっくりと語りかけるようにコメントを始めた。否が応でも緊張感は高まって行く。
まずは永田さんへのインタビュー。そして僕の番となった。
「どうしてパジャマですか?」
「初心に戻って自然体で行きます。」(※3)
まさに自然のままだった。他のチェックポイントとは違い、今回だけは整髪料もつけていなかった。

「その姿を成田で見たような気がしますが…」
「そうです。」
実はこのパジャマには重大な意味があった。
ここで着ておけば成田のシーンはどうしてもカットできないだろうというスケべな計算だ。

「マルタの写真は今持っていますか?」
「はい、ちゃんとポケットの中にいます。」
成田のジャンケンの時からずっと本番中は彼女は僕のポケットの中にいた。

「あなたは本当にこれでクイズを卒業しますか?」
来た。たぶんこの質問は来ると思っていた。
オーストラリアあたりから僕はスタッフに、これが最後の戦いになるだろうということは伝えていたからだ。
「はい、戦士としては卒業します。」

ここでこの言葉について少し説明しようと思う。
実際に僕はここで「戦士」という言葉を使ったが放送でははっきりとそうは伝わらず、「選手」と聞こえた人が多かったようだ。
ファンレターをくれた女の子たちだけでなく友人たちでもそうで、「もうクイズはやめるの?」とか「これからは監督やコーチとしてクイズをやるの?」とかいろいろ言われた。
でもそんなことはない。クイズというスポーツ(僕は早押しクイズは知力、反射神経、精神力、体力を使う立派なスポーツであると思っている)は僕が考えている以上に奥が深く、常に新鮮なものを感じることができる。そんな素晴らしいものを簡単に手放すはずがないのだ。
RUQSでもそうなのだが僕はとにかく「楽しいクイズ」を意識してやって来た。
クイズの問題に対しているときはみんな対等だ。勝ったから強いからといって偉くもなんともないのだ。いつも明るく楽しく、そして実力も付いて来るというのがサークルでのモットーだった。
しかしその一方ではぼくは一人でいる時は常に「勝負」にこだわっていた。より多く正解できるために、より早く押せるために、つまり、より確実に勝てるためにさまざまな努力・工夫を重ねて来た。間違いなく誰よりも多くの時間と精神力と体力を費やしたことだろう。
クイズの楽しみ方は多種多様であり、僕はこの日を境に楽しみ方を変えようと思っていたのだった。勝負を重視するのではなく、ワイワイ楽しくやるプレーヤーになろうと決心したのである。

「永田さんに伺います。第13回のクイズ王になるのは一体誰ですか?」
「永田喜彰、僕です。」
「長戸くん。第13回のクイズ王になるのは一体誰ですか?」
「僕です。」(※4)

2人とも気合い十分である。
僕にとっては長い長いクイズの旅の最後の戦いが今始まろうとしていた。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

※1 RUQSの窓口になっていた後輩の関口

グアムで泥に飛び込んだ東大の関口とは何の関係もない。僕が3回生の時の1回生で、『アタック25 100人の大サバイバル』にも出場している。

※2 僕は身震いを抑えられなかった

寒かったのだ。だって9月末のニューヨーク、しかも吹きっさらしの川のド真ん中でパジャマ1枚て。

※3 「初心に戻って自然体で行きます。」

放送を見ると、あまりに寒くて噛んでいるのがわかる。

※4 「僕です。」

これ、下の船室では、トメさんに「誰ですか?」と聞かれたら、永田さんが「ながちゃんです。」、で僕も「誰ですか?」と聞かれたら「ながちゃんです。」と言ってケムに巻こうという話をしていた。だからもし永田さんが先に「ながちゃんです。」と言ったら、僕もそれに追随するつもりではいた。(言えるかーい)

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

「1989年。第13回アメリカ横断ウルトラクイズ、いよいよ決勝戦を始めます。ボタンに手を掛けて。」
トメさんによるスタートの合図である。

さあいよいよだ。クイズ形式はプラスマイナスの10ポイント先取。これまで僕はさまざまなクイズを経験して来たが、この形式が最も得意とするところなのだ。
このクイズ形式はどうしても長丁場となる。クイズ力、精神力、そして高度な駆け引きが要求される最高のものだと思っている。

さあ始まるぞー。

「問題。」
「ニューヨークの地下鉄で、切符がわりに使わ / れている…」
「トークン!」
先手を取ったのは永田さんだった。

ここで僕にはちょっと気になることがあった。
いつもは本番前にボタン押しの練習をさせてくれるのだが、今回はやらせてもらえなかったのである。緊張感を持続させたまま戦いに入る目的があったのだろう。しかしボタンの硬さはどんなものか(※5)、フォームを使いこなせる位置に座っているのか(※6)、それがとても心配だった。

2問目。
「稲の穂先にある小さな毛のこと。つまり、とても小さなものという意味を持つ時間の単位は?」
何のこっちゃわからなかった。
「短い時間」の単位といったら75分の1秒の「刹那」ぐらいしか知らんし…。よし、ここでボタンのチェックをしてやれ。

僕は問題文が全部読まれ、しかも明らかに永田さんが押す気配もないのに、問題文の途中で押すような押し方をした。もちろんボタンとフォームの点検のためである。
「刹那!」
ブー。不正解のブザーが鳴った。
OK、OK。フォームは完璧。ボタンの硬さもこんなもんか。

ポイントはマイナス1対プラス1。2点差になった。
「よし、走ったろ。」
その後の10問で僕は5問正解2問ミスと、実に7回の解答権を取った。これでポイントは2対1となった。

もうこの頃には指の早さはほぼ絶好調時と同じぐらいになっていた。しかも何よりもリラックスしてクイズをやっていたのだ。
最初のワザとミスは、元巨人のエース、堀内恒夫投手が高校時代に甲子園での初戦で自分をリラックスさせるために初球をわざとバックネットに向けて投げた、と同じ効果があったのである。(※7)

僕の感覚ではもうここはニューヨークではなかった。RUQSの例会で永田さんと早押しをやっている、という気分になっていたのだ。

周りを見る余裕もあった。外の景色だけでなく、上空を飛ぶヘリコプターからスタッフ全員の顔から、果てはマーチングバンドの高校生たちの顔まで。「お前ちょっと緊張しろよ」と僕は自分に心の中でツッコんだぐらいである。

永田さんもそうなのだが、僕もリラックスするとやかましくなる。
どんな真剣な時でも他人に茶々を入れようとするし、「アイタ!」とか「ヨッシャ!」とかいう声を出してしまうのだ。
こういう余計なことを言っていても真剣なのは間違いない。ただ長い間、関西でクイズをやっていると体が勝手にこうなってしまうのである。だから僕らが静かにクイズをやっている時は不調のズンドコ、もとい、ドンゾコなのだ。(※8)

さてこんな僕の反応を見て左側に陣取っているマーチングバンドの連中がやけに受けている。何を言っているかは多分わかっていないだろうが、派手なジェスチャーや表情に笑っているのである。

途中6問連続でスルー(※9)という時があった。この時僕はこのマーチングバンドをくまなく観察した。指揮をする頭の薄い先生、『グローイング・アップ』に出て来そうな男の子や女の子。日本人もいるぞ。たぶん親の仕事の都合か何かだろうなあ、などと考えていた。

と、よく見て見ると1人、可愛い子がいるではないか。一番奥の端である。
「あ、可愛い。よし、あの子を笑わしたろ」
それからは正解してもミスしても、リアクションをより派手にした。もちろんターゲットはその子、1人である。(※10)

さて、決勝戦の方は、永田さんが突然の不調に陥り僕が絶好調、というとんでもない展開になっていた。(※11)
さらに問題も奇跡的に僕が過去に作った問題や、さっき暗い船室で勉強した問題が立て続けに出題された。

「思想家キルケゴールが著書の中で / 」
「絶望!」
「落語の『時そば』。本 / 」(※12)
「16文!」
「環境汚染防止の費用は、その汚染者が支払う / 」
「PPP」
「マリー・アントワネットが円形や / 」
「ハンカチ!」
「アメリカ五大湖のなかで、湖全体が / 」
「ミシガン湖!」
「チャールズ・チャップリンとバスター・キートンが / 」
「ライムライト!」

答えながら僕は懐かしがっていた。

「キルケゴール」も「時そば」も僕が作った問題集『栄光への脱出』(※13)に収められているし、「PPP」や「ハンカチ」はRUQSの例会で出題したものだ。特にマリー・アントワネットがハンカチの形を正方形に定めた、ということを僕が知って問題にしたのは1987年12月。そこまではっきり覚えている。
「ライムライト」に至ってはついさっき船室で永田さんと話をしていたところだ。船室ではなぜかチャップリンの話題になって、
「そういやチャップリンの命日て、12月25日でしたよね。」
「うん。」
「初めてのトーキー作品て何でしたっけ?」
「モダンタイムスやな。」
「キートンと共演したのって何でした?」
「ライムライトやろな。」
まさかこの会話が後で生きてくるとは。(※14)

とにかく僕はこういった問題を答えるたびに、その瞬間その瞬間にいろんなことを思い出していた。このことはこれが最後の戦いであることをさらに強く思わせる結果となった。

ポイントは8対マイナス2になった。
僕はマーチングバンドに目をやった。
「いいか、7ポイントぐらいになるとマーチングバンドの連中が構えやがるんだ。それが妙に緊張感を煽りやがるんだよ、まったく。」
と先代のチャンピオンの瀬間さんから言われていたからだ。
だが何とここへ来ても彼らには全く構えるそぶりがなかった。
「オイオイ、そろそろ行くで」
僕は変なことに気を回すことになった。

「与謝野晶子の『君死にたまふこと勿れ』で、身を案じている弟が / 」
「日露戦争!」
さあいよいよリーチとなった。マーチングバンドもやっと構えだした。

あと1問。あと1問で僕のクイズの戦いは幕を下ろしてしまう。
しかし長かった。いろんなことがあった。
僕は急に悲しくなった。(放送を見てもわかるが、9ポイントの後、僕は半分泣き顔になっている) 正直なところ、もう正解したくなかった。負けたくなかったけど勝ちたくもなかった。でもそういうわけにはいかない。僕が勝たなくては大会は終わらないのだ。

「よし、こうなったら僕らしい完全な押しでフィニッシュを飾ってやろう」
この大会では僕はワザとミスしたことはあったが、ワザと問題をスルーさせたことはただの一度もなかった。いくら何でもそれはスタッフに失礼だと思っていたからである。
でもこの段階で僕はとうとうそれをした。

僕がリーチを掛けてからも永田さんは一進一退し、その差は9対マイナス3の12ポイントとなっていた。
そしてついに。

「男性が女性をあれこれと批評し合う…」
「批評し合う」なので男性が複数だというのはわかる。つまりこの問題は『源氏物語』の「雨夜の品定め」ラインの問題なのだ。
この時点で僕が読んだ先は、
「…ことを、源氏物語の一節にたとえて何という?」
「…ことを「雨夜の品定め」と言いますが、この言葉を生んだ日本の古典文学は?」
「…ことを「雨夜の品定め」と言いますが、これは『源氏物語』のどの巻に登場する?」
の3つだった。ストレートなら「雨夜の品定め」、ステップなら「源氏物語」、捻るなら「帚木」だ。
読みはたぶん完全だろうしジャンルも大好きな文学。難度もまあいいかというところ。「帚木」だったら最高なんだけど。よし、これで行ったろ。
さあ来い!とりあえず『源』が来たら確定や!

「…ことを、『源 / 」
いきなり来た! ポーン!

僕のハットが上がった。
船の上の時間が完全に止まった。
数え切れない程の数の目が静かに僕を見ている。

「長戸!」
トメさんが叫ぶ。
「雨夜の、品、定め」
「決定ー! チャンピオン決定ーっ!」

正解してしまった。そして、終わった。
10年以上かけて追い続けた夢がとうとう今叶ったのだ。
嬉しい。喜びたい。夢を手に入れたんだから大声で叫んで笑えばいい。
だが何かが違うのだ。夢が叶うということは単純な喜びではなかったのだ。

ぼくは何よりもまず永田さんと握手をした。
大差で負け、悔しさで一杯のはずなのに永田さんはいつもと変わらず優しい顔で祝福してくれた。

トメさんが歩み寄ってくる。
「おめでとう。」
僕はトメさんの肩に頭を垂れ、やっと泣いた。
「よくやった。うん、うん。よくやった。」
トメさんが親父のように思えた。

今回のレイギャルである「ミス・ブルックリン」から花束を受け取り、そして最後の「悦楽タイム」である。
どさくさに紛れてキスでもしてやろうかと思ったが、あまりにも僕の好きなタイプでなかったのでやめにしておいた。

恒例のシャンパンタイムである。
「A型肝炎にかかっているけどどうする?」(※15)
「飲みます。太秦病院の平岡先生、どうもすみません。」
僕は1ヶ月程前の先生との約束を守り、ここまで一口もアルコールを口にしてなかった。
目の前でシャンパンが注がれて行く。
「さあ、どうぞ!」
僕はポケットからマルタの写真を取り出し、「乾杯」と一言だけ言ってキスをし、グラスに口をつけた。
変な味だった。酒というのはこんなもんだったかなという気がしたが、たぶん2ヶ月も飲んでないから口が忘れていたのだろうと思った。
「お酒てこんな味やったんですね。」
これは僕が大バカだった。
僕の体を心配してくれたスタッフがシャンパンの代わりにサイダーをビンに詰めていてくれたのだ。そりゃ変な味がするわけだ。もちろんこのことは後で知ったことなんだけど。

優勝インタビューが始まった。
今までのクイズのこと、夢の話、マルタのことなど、延々と20分ぐらい話をした。パジャマ1枚の僕には少し寒かった。(※16)

自由の女神が近づいて来る。
「綺麗ですね。」
「女神とマルタとどっちが綺麗だ?」
「うーん、第13回のウルトラクイズで最も難しい問題ですね。」
笑って僕は答えたが、本心は「そらやっぱりマルタやなー。」と思っていた。

「カーット!」

収録が終了した。
船上の雰囲気が一気に和やかになる。
「お疲れさまでした。」
「おめでとう!」
たくさんのスタッフが僕を祝福してくれた。

みんなで記念撮影をすることになった。
ここで僕は改めて大優勝旗を手にしていることに気がついた。
旗には歴代のチャンピオンたちの名前が見える。
「松尾清三」「北川宣浩」「宗田利八郎」…。僕がウルトラクイズに胸を弾ませていた頃の懐かしい名前がそこにある。
「ここにオレも残るんか…」
感無量だった。が、同時に何か申し訳ない気分にもなった。
しかし名前をめくって行くうちに、
…、「稲川良夫」「瀬間康仁」…
「あ、別に申し訳ないことないわ」

船が港へ着くまでにはまだ時間があった。僕らは船室へ戻り、僕は服を着替えた。
灯りのついた船室は意外と広かった。マーチングバンドの連中も着替えを済ませてその部屋でくつろいでいる。
「オメデトウ。」
「congratulation!」
みんな僕に握手を求めて来た。

「写真撮って撮ってー。」
船上に戻ってきた僕らに日本人の女の子たちは一緒に写真を撮ってくれとせがんで来た。
僕は永田さんやトメさんと、女の子たちを交えてたくさんのフラッシュを浴びた。

「そういやあの可愛い子は…。あ、おったおった」
女の子は何人も写真を撮ってくれたのだけど、もちろん僕は一人にだけ写真を送ってくれるように頼んだ。どこからともなくペンとメモを取り出し、
「記念にしたいので、よかったら写真を送って。はい、これ僕の住所。」(※17)
「あ、京都の人なんですか?」
「うん、なんで?」
「わたし実家が箕面なんです。」
「そうなんや。ほな日本に帰って来たらどっか遊びに行こか。」
「はい。」
ニッコリ笑った彼女は確かに可愛かった。
その後ニューヨークから写真とともに手紙が送られて来た。

船が港へ着いた。決戦場を後にして僕らはバスでホテルへと向かった。
永田さんと2人で部屋に戻り一息つく。

「終わりましたね。」
「ああ。」
2人とも精神的にも肉体的にも疲れ果てていた。

「日本へ電話しましょうか。」
2人はいつも世話になっている羽賀政勝さんに最初の報告の電話をし、次に瀬間さんに掛けた。

そういや今からちょうど1年前、同じニューヨークからの国際電話を僕は受けた。相手はシャンパンを飲んで酔いまくっていた瀬間さんだった。彼は真っ先に僕に勝利の報告をしてくれたのだ。
あれから1年。まさか今度は僕がその瀬間さんに勝利の報告をすることになろうとは。何か不思議な気がした。

「あ、もしもし瀬間さん?」
「あ、長戸?どうだった?」
「どうだったと思います?」
「勝ったのか。」
「はい。」
「そうか、勝ったか。おめでとう。今、何とも言えない気分だろ?」
「はい。」
「ポイントは?」
「10対マイナス3です。」
「そうか。7ポイントになったら指揮のオッサンが構えたろ?」
「いや、9ポイントまで静かでしたよ。」
「永田さんはいる?」
「いますよ。代わりますね。」

この後、代わる代わる瀬間さんと話をし、しばらくして電話を切った。
疲れていた僕らはしばらく話をした後、すぐに深い眠りについてしまった。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

※5 ボタンの硬さはどんなものか

いわゆる「押し込み」がどこまでできるか、ということの確認である。

※6 フォームを使いこなせる位置に座っているのか

右手の肘を伸ばすためには椅子の右半分を少し後ろにズラす必要があった。もし椅子が固定なら(これが知りたかった)、体そのものを半身にする必要があったのだ。

※7 初球をわざとバックネットに向けて投げた、と同じ効果があったのである

野球マニアという感じのネタをブッコんでいる。『創造力』では残念ながらカット。

※8 不調のズンドコ、もとい、ドンゾコなのだ

こういうのはカットされても致し方ない。

※9 6問連続でスルー

「スルー」とは解答者の誰も押さなかった問題のこと。

※10 もちろんターゲットはその子、1人である

本番中です(笑)

※11 とんでもない展開になっていた

永田さんがなかなか本調子にならないので復調するまではと、最初の方では僕も指を遅くしていた。しかしちょっとダラダラした展開になってトメさんも不満そうな顔をし始めてきたので、「永田さん、ごめん、行くわ」と心の中で言い、僕は一気に加速した。(僕がそう思ったのは永田さんもわかったらしい)

※12 「落語の『時そば』。本 / 」

「時そばちゃうで、時うどんやでー」と思いながら押した。

※13 僕が作った問題集『栄光への脱出』

当時、RUQSのメンバーだけに配っていた、早押し養成ギプス的なクイズ問題集のこと。ボルチモアで永田さんが「山口素堂」の問題をいいポイントで押して、「えーっと、えーっと」と考えていたのは、この問題(「目には青葉、山ほととぎす、初鰹」の作者)もこの問題集にあったからである。そしてこれらは『クイズは創造力 問題集篇』の元ネタの1つとなった。

※14 まさかこの会話が後で生きてくるとは

だからこの問題に限っては僕は永田さんの方に向かって正解を叫んでいる。

※15 「A型肝炎にかかっているけどどうする?」

よく考えると、何でバレてるの?なのだが、そういや前夜の会食で僕はトメさんにとうとう白状したのだった。知ってたよ。と言われて僕はとても驚いたのだった。えー?これー?

※16 パジャマ1枚の僕には少し寒かった

少しどころではなかった。

※17 はい、これ僕の住所

サイテーやな(笑)

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

今回のニューヨーク決戦。テレビでは25問(僕が13問正解3問ミス、永田さんが4問正解5問ミス)しか流れていないが、実際のところは僕は17問正解の7問ミス、永田さんは4問正解7問ミス、スルーは18問の合計53問もやっているのである。

そこで今回は特別に、テレビでは放送されなかった決勝の問題を15問ほど載せてみようと思う。
さあ君は何問できるか?!(※18)

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

※18 さあ君は何問できるか?!

このあと問題が何問か記されているのだが、そんなもん、著作権などの兼ね合いがあって本には掲載できるわけがなかったのだった。当然ここでも書けない。幻のコーナーということにしておこう。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

決戦が始まる前のトメさんのインタビュー、
「どうしてこれまで2人は1対1の対決をしなかったのですか?」
に、永田さんは
「神様が取っておいてくれたのだと思います。」
と答えている。
僕もこれには激しく同意していた。

ボルチモアの日記にも書いたが、永田さんは本格的なクイズキャリアがそんなに長くなかったため、一気に頂上まで上り詰めたという雰囲気があった。
同じ関西、同じサークルで活動していた僕はそれをずっと間近で見ていて、驚きの連続だったのを憶えている。

この頃は僕もまだクイズにギラギラしていていろんなサークルにクイズをしに行っていたのだけど(まだ「オープン大会」という文化がなかった時代である)、僕と永田さんで決勝という組み合わせは全然実現せず、RUQS関係でも永田さんが主催すると僕は決勝に行き、僕が主催すると確実に永田さんが勝つようになっていた。
そのうちお互い、サシ(1対1)でやったらどうなるんやろね、と語り合うようになっていたのだ。
それほどまでに、たとえプライベートな徹夜クイズでさえも、ついにその状況は生まれなかったのである。

僕が南米から戻って来て『第13回』に出場したとき、東京ドームの段階で僕は優勝すると感じたし、同時に永田さんは僕の優勝を見届けるためにニューヨークに行く、と思ったそうである。
だから僕らの中では「初めてのサシはニューヨークでできる」、という確約ができた感じがしていたのだ。

僕は永田さんとツアーで同部屋になったときに、そのことを話した。
そしてそこで、これまで1対1を実現できなかったのは神様が取っていてくれたんやろな、ということで意見が一致したのだ。

決勝に秋利が来れば僕のネタは完成する、と前回書いたが、大きなくくりで「座り」がよかったのは、やはり相手が永田さんだったパターンだったんだろうな、と感じる。

僕にとってはRUQSの先輩である稲ちゃん、佐原さん、瀬間さん、そして永田さんの4人は特別な存在で、本当に兄貴のように思っているのだ。出来のいい悪いは別として(笑)
だから永田さんとニューヨークで対決をしたことは、そのこと自体も感慨深いのだけど、それ以前に、一緒にニューヨークに行けたことの方が何倍も嬉しく、その満足も得られていたのだった。

そういえば、これを書かないといけない。
今までどこにも書いていない、僕にとってのニューヨーク決勝の最高のシーンの話である。

「女神とマルタとどっちが綺麗だ?」
で、トメさんの質問は終わった。トメさんは僕から離れたが、それでもなおカメラは回っていた。
僕はずっと席に座ったままの永田さんの方へ行き、さっきまで座っていた自分の早押し席へと着いた。
まだカメラは回り続けている。当然ながらトメさんを含むスタッフ全員が僕らの行動を注視している。

そこで僕は永田さんと話を始めたのだった。
「お疲れさまでした。」
「ありがとうございました。」
「おめでとう。」
に始まって、この決勝のこと、今回のツアーのことなど、さまざまなことを話した。
筋書きが全くない、でも放送には絶対に耐えうる自信があった、2人だけの感想戦だ。

星空の下、突き刺すような肌寒さの中、場所は紛れもない「プリンセス号」の上である。僕ら2人だけにすべてが与えられ、それを僕ら以外の全員が固唾を飲んで見守っている。

こここそが僕にとっての『第13回』のハイライトシーンだった。

あまりに長く話したので内容がカットされるのは覚悟していた。だから僕は永田さんの顔と、時折スタッフの顔を見ながら、このすべてのシーンを記憶してやろうと思った。

話に一段落がついた後、僕らは顔を見合わせて少し黙った。そして一瞬の間。
「カーット!」の掛け声が上がったのはその直後だった。

◆ ◆ ◆

10ポイント先取のクイズは人生を映してくれると思っている。
このクイズに勝つためには10個の正解を出す必要があるのだが、その10のネタを自分がどの時点で知ったのか、それを思い返すととても興味深いからだ。

僕はかねてより「10個の正解を人生の数直線上に記してみればいい」と言っていた。たとえばこのニューヨーク決戦で僕が答えた問題でいえば、「PPP」は1985年、「ハンカチ」は1987年だし、「衝」は受験勉強をしていた地学の問題だから1983年、「16文」は落研時代に聞いた噺からだから1981年、という具合である。
数直線上を点は自在に動く。クイズは時空を飛び越えて自分の人生の一部分をえぐってくるのである。

この面白さがクイズの醍醐味の1つで、クイズは自分の人生が投影されるものなのだ、とう僕の説の根拠の1つとなっていた。

ところでこの面白さ、どこかで具体的な映像として目にした人も少なくないだろう。そう、映画『スラムドッグ・ミリオネア』だ。
この物語(実話らしいが)の主人公は『クイズ・ミリオネア』の15の問題に、自分の人生のエピソードをもとにして次々と正解を出していくのである。
この映画を初めて見たとき、「そうそう、これこれ」と思った反面、「やられたー」とも思った。しまったー、『創造力』でここのところをもう少しちゃんと書いておけばよかったーって(笑)

当然ながら10代よりも20代、20代よりも30代、という風に年齢が上がって行くにつれてこの面白さはリアルに感じることができる。クイズのまた別の楽しみ方の1つと考えてもらえれば嬉しい。

というわけで、次は『創造力』ではほとんどカットとなっているオークランド篇。
10月1日の夜に。

優勝後に撮った1枚。
左に写っているのは、このツアーでむちゃくちゃ
お世話になった、構成作家の藤原さん。