昔の話
170525
引っ越して1か月。いまだに僕の部屋の荷物は整理し切れていない。
僕の百箱ほどの荷物は書籍と雑誌と書類がほとんど。引っ越し屋の兄ちゃんには・・・、本当に申し訳なかったと思っている。(ジャック・バウワーの吹き替えで)
当たり前っちゃ当たり前なんだけど、クイズに関する荷物ばっかりだ。
1000本近いビデオテープもそう。ラベルを見るとこれがまた、ほぼクイズ番組。そうでなければ音楽番組か宮崎美子様ご出演の番組か、の二択。
クイズ番組のビデオは局でも残っていないものがあるらしく、ひょっとしたら僕しか持っていないものもあるかも知れない。
ところで、引っ越しの開梱作業のときに決してやってはいけないことがある。それが、中のものを精査することだ。
わかりやすく言うと、アルバムを開いたり日記を読んだりすること。
これはアカンに決まってる。アカンねん。やったらアカンねん。でもなー、やってしまうんやー。せやかてオモロいからやー。(誰やねん)
僕の場合は、昔のクイズのノートとか、自作問題とか初期のクイズ研の会報とかを読んでしまうことにある。
昔のものではあっても忘れていることも多くあり、さらには、「当時は気にもかけていなかったこと」がその後の情報や時代の移り変わりの結果、「おお!」という内容に変化していることもある。
これらの「再発見」はクイズ知識として十分に有効だ。もし家に10年以上開けていないクイズ箱があったら見返してみることをお勧めする。
昔のクイズ資料が山ほど出てきてそれをいくつか見ていてわかったのは、やはり最初の時の熱の入れようはすごかった、ということだ。
内容的には大したことは書いてないし、自作の〇×問題もレベルが低いんだけど、それでも何か伝わるものがある。自分のことだから当時のことを思い出してそれで感情が渦巻くという部分もあるにはある。しかしそれを引いても情熱は十分に感じ取ることができる。
さて、前回のコラムでは『第8回』のことを書いた。あれは僕が19歳になるときの話だ。今回は引っ越しで思い出しついでに、それ以前の話を書いてみようと思う。
クイズ初心者からベテランの人まで、全員このいわゆる「黎明期」があるわけなんだけど、僕の話を読んでもし同じだという部分があったら「そうそう」と言いながら自分のことを思い出してほしい。もし違う部分があったら、なるほど長戸はそうしたのかー、と思ってほしい。
なぜそういう感情を持ってほしいか、という理由は最後に書いてみたいと思う。
初期の話はそれこそいろいろあり、内容を詳しく書いていると朝までかかってしまうので時系列的に端的に話を進めていこうと思う。
まずは1977年。
この年、僕は小学6年生だった。秋に、『アメリカ横断ウルトラクイズ』が放送された。
そして翌年、『第2回アメリカ横断ウルトラクイズ』が放送された。僕は当然中学1年だった。
さて今書いた部分、こういう風に書いたら当たり前のことのように思えるけど、実はとんでもない出来事だった、というのはわかるかな。
そう、最初のウルトラクイズはこのとき『第1回』とは銘打ってなかったのよ。つまり翌年に放送されたときに『第2回』とあって、そこで初めて視聴者は「続くんだー」って思ったわけ。
ちなみに『ウルトラクイズ』の問題集でも初版を含め最初の時期に出版された『第1回』のものにもやはり「1」という数字はタイトルのどこにもない。
ウルトラクイズに影響されたのは僕だけではなかった。そのうちの1人、小中高の同級生で同じ町内に住んでいる矢代君が僕の家に遊びに来て、「クイズやろう」って言ったのが翌年、中学2年時の6月だった。
これがすべての始まりといえば始まりで、そこでコテンパンにやられた僕はすぐさま本屋へクイズ本を買いに行った。そこからクイズの問題をこなす日々が始まる。
クイズにはまってくると、仲間と対戦したくなったり出題をしたくなってくる。
矢代はこの頃にすでに早押し機を自作していて(回路は電気店街のパーツ屋にあった)、僕もそれに倣って自分用の早押し機を持った。
クラスの中で休み時間に友達を集めてクイズを出題していた。後で聞いたら当時、下関で秋利も同じことをやっていたらしい。「〇〇中学横断ウルトラクイズ」みたいな類のやつね。
1979年、その年の秋に放送があったのが『第3回アメリカ横断ウルトラクイズ』。
矢代の家は電気店を営んでいて、営業が終わった夜に店頭展示しているビデオデッキ(当時はほとんどの家庭にまだなかった)で彼が録ってくれていた『第3回ウルトラ』のビデオを2人で何度も見ていた。
ウルトラクイズが好きな時に見れる、という、後の時代には当たり前のことがあのときは夢以上の世界のことに思えた。それがこの目の前にあるビデオデッキさえあれば何とかなるのだ。
直後、僕は学校では禁止されていたアルバイト(まあ中学校だからねー)の申し出をして、担任と教頭を面接で説得し(説得した内容はそれこそ中央突破で「クイズをするためにビデオを買う」だった(笑))、その冬から朝に新聞配達をして資金を稼いだ。
そして念願のビデオデッキを買ったのが翌年、1980年の夏。最初に録画した番組は「モスクワオリンピック開会式」。秋に放送される『第4回アメリカ横断ウルトラクイズ』には間に合ったわけだ。
ビデオデッキは当然「矢代電機」で買った(笑) 矢代からは前年に録画した『第3回』の2週目をもらった。ただし、これは店で商品を買ったから、というわけではないので念のため。そんな「営業」をする中学生は嫌だ(笑)
1週目と3週目は彼はすでに消していて、かろうじて残っていたのが2週目だった。
これは仕方がない。当時のビデオテープは1本数千円という非常に高価なものだったので「残す」という意識は今よりも相当低かったのだ。ビデオは残すものではなく、見れない番組を見るだけのもので、テープはそれこそダメになるまで上から上から録画をするものだったのである。
話は逸れるが、昔ビデオには「VHS」と「β」の2つの系統があったんだけど、初期のビデオの使い方がこの「見たいものを見る」だったために、長時間録画に対応したVHSが主流になった(VHSは最長6時間、βは4時間半)という話がある。
しかしながら、画質は圧倒的にβの方がいい。テレビ局が採用しているのもβの方である。僕はこのとき、クイズ番組は「残す」という意識しかなかったので、迷わずβのビデオデッキを購入した。
これも後でいろんな人に聞いたんだけど、クイズの強者にはβ派が意外と多かった。理由は僕と同じだった。彼らも僕と同様、クイズ番組は残して研究する、というものだったのである。
ビデオデッキを買った7月の終わりから『第4回』が放送される11月までの3か月ほどは、僕はそれこそ毎日毎日『第3回2週目』を見ていた。
ファンレターに「ウルトラクイズは毎日毎日見てます」というのがよくあったけど、実は僕もそうだったのである。
学校から帰ってきたら自分の部屋で少なくとも毎日3回は『ウルトラ』を見ていた。飽きないなあ、と考えることすらなかった。だって面白すぎて単純に「また見たい」と思うだけだったんだから。
3回見てご飯食べて夜はクイズの問題を解く、みたいな生活がずっと続いていた。
この年の冬、僕にとってはもう1つの決定的な出来事があった。
書店で『TVクイズ大研究』という本を発見したことだ。
これは『第2回』で優勝した北川宣浩さんが書いたクイズ本で、名著の誉れ高い作品である。
後年、僕が書いた『クイズは創造力』をバイブル的に扱ってくれる人も出てくるんだけど、その人にとっての『創造力』と僕にとってのこの『大研究』が同じものといったらわかりやすいか。
その本の中に書かれていることは、もう「目から鱗」の連続だった。
すでに早押しクイズは意識していたとはいえ、ボタンを押す「ポイント」(この言葉もその本の中で使われていた)の存在なんかでさえちゃんと考えていなかったところへ押し寄せるクイズ理論。もう圧倒されるどころの話ではなかった。
しかしなー、僕にとっては時期が悪かった。時は中学3年生の12月。受験は目の前だっつーの。
見事第一志望の某私立高校は落ちて、公立の嵯峨野高校校に入学することになった。
『大研究』を読んでクイズにさらにはまってしまったこの頃、普段通り日曜日に『アップダウンクイズ』を見ていたらテロップが流れた。
それは来年春に放送予定の「新高校生特集」の出場者募集のお知らせだった。
なんというタイミング。クイズ界の流れはオレを必要としている!とアホな妄想をしながら、『大研究』に書かれていた「ハガキの書き方」を参考にして応募した。
そして予選が翌1981年3月。全国数か所で行われて僕は全国2位で通過した。関西予選では余裕の1位だった。
このとき全国トップだったのが前回登場した木更津の加藤実である。30問中僕が27問正解、加藤は28問正解だった。3位が24点だったらしいから僕ら2人だけが飛び抜けていた。
収録は3月の終わりで放送は「新高校生」になった4月19日。今年神奈川に引っ越して来た日と奇しくも同じ日である。
『アップダウンクイズ』では10問正解すれば優勝でハワイ旅行と10万円が獲得できる。誰か1人だけが勝つわけでなく、時間内であればそれこそ6人全員にチャンスがある。
最初にハワイ行きを決めたのは(表現がウルトラっぽいな)加藤だった。遅れて僕も10正解を果たした。
優勝は僕ら2人だけだったのだけど、この大会で5枠に座っていたのが後に『アタック25』でパーフェクトを達成する西宮の青木紀美江である。最近は長嶋一茂さんの同級生としてテレビに出ていたが。
彼女は総正解数は10問行っていながら、途中で一度誤答をしたためにハワイに行けなかった。
ここから高校時代の3年間はクイズと部活とバイトの日々。
そしてまたも受験直前(笑)の高校3年の1983年12月に『第1回高校生クイズ』となる。どうも僕は受験とは縁がなさそうだ。ってちゃんと勉強しろっての。
高校を卒業して単身東京で浪人暮らしを始めたのが1984年4月。6月にはお茶の水女子大に入学していた青木とともに、当時日本にもいくつもなかった社会人のクイズサークルである「ホノルルクラブ」に入会させていただいた。
で、その夏が『第8回』、ということになる。
ところで今回、なぜこういうことを書いたのかというと、こういうハマったものを「思い出す」のは、「情熱を呼び戻す」ことに近いからだ。
クイズでもスポーツでもビジネスでも、行動の前にこの「情熱」がないと決して達成はできないと僕は考える。
「うぉりゃー、やったるでー!」がまず最初に来ていないものに満足のいく結果はやって来ないというのが僕の持論というわけだ。
そこでこのコラムを読んでいる、特にベテランの人々にこの「自身のことを思い出す」をしてほしいと思った次第。
それはなぜか、うっかり「思い出して」しまった僕が、いま変にクイズをやりたくなっているという事実が原因である(笑)
さあベテランのみなさん、一緒にうっかり思い出してクイズをやりましょう。
あのとき確実に存在していて、しかし今はどこかへ消えてしまったあの情熱を、もう一度取り返そうではありませんか! (何でわざわざその情熱を取り返す必要があるのか、という根本的な話は置いといて)
前に企画した「マンオブシニア」みたいなイベントではなく、オッサンやレディーが集まってクイズをやる場をまた設けましょう。縁のある方から誘って行こうと思っているのでどうぞよろしく。また、久しぶりにやってみたいなと思ってる方もぜひ僕をたきつけてください。
なんだ結局、単なる自分勝手な告知だったじゃないか。
というお叱りの声もなく。(©人生幸朗)
ではまた来週の木曜日。