国外第一次予選 南米→日本 (1989年7月29日~8月6日)

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2年前、秋利や田川さんがブログで連載し好評を博していた「26年前日記」を無断でパクった企画が(笑)今夜スタートする。

たまたま今年2017年はあの『第13回』があった1989年と同じカレンダーということで、ひょっとしたら彼らのものよりも時間の進行がよりリアルに感じられるかなー、とも考えていたりする。そんなわけないか。
そして彼らの日記と違って僕のはニューヨークへも行けるのだ、ということも改めて確認しておきたい(笑)

前々回のコラムで予告した通り、僕が当時書いていた実際の日記(記録)は、あまりにも生々しいので転載不可能だ(笑)
仕方ないのでそのうちでも掲載できる部分と、『クイズは創造力≪理論篇≫』のオリジナル原稿、そしてそれらを軸にしたネタ話をチェックポイントごとに構成してみたいと思う

実際のツアーの出発は9月2日の早朝なので本編はその日の夜にアップとなるが、それに先立つ今夜8月31日は、『創造力』では大幅にカットされた冒頭の部分を掲載してみようと思う。

題して「国外第一次予選」。『創造力』のウルトラ体験記の書き出しは本当はこんな感じだったのだ。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

機体は徐々に高度を下げた。
窓の外を覗き込むと幾多もの光の粒。懐かしき関西の街の灯だ。
「か、帰ってきた…。日本や…。」

思い起こせば1週間ほど前には僕はまだ「世界の果て」にいた。

-7月29日 チリ最南端、プンタ・アレーナス

「間に合うの? 日本に帰れるの?」

心配そうに僕を見つめてマルタは言った。(※1)
彼女はアルゼンチンの女の子。僕らはアルゼンチンとチリの国境越えのバスで知り合った。

「たぶんOK。でももし帰れなかったら君と一緒にアルゼンチンに戻るよ。」

僕は彼女に向かって笑いながらそう言ったが、内心は少し焦っていた。
東京ドームでのウルトラクイズの第1次予選は8月13日である。これに出場するためにはまず日本へ帰らなければいけないのだが、どうも上手く行かない様子なのだ。

そもそもウルトラへの出場を思い立ったのがこの数日前のことで、そこから日本に帰るチケットを探そうにもこの頃にはもうすでに8月前半のあらゆる交通機関の予約は難しくなっていたのである。
前日もこの町の航空会社のオフィスを回ってみたのだが全部ダメで、この日は旅行代理店を回ってみようと思っていた。

とはいうものの、実のところでは、もし上手く日本に帰れなく、ウルトラに間に合わないことがわかってもまあいいや、という感じでもいた。もともと今回のウルトラにはハナっから出場する気がなかったからだ。本来なら南米には来年の年明けぐらいまではいるつもりでいたのだ。

しかし最初の予定以上にいろんな場所を旅して遊んでしまったために資金が底をついてしまい、それで泣く泣く帰るハメとなってしまったのだった。
で、どうせ8月に帰るのならついでにウルトラでも出ようか、というぐらいのものだったのだ。
もし帰国がウルトラに間に合わないとわかったときは、日本からお金を送ってもらってもう少し南米に残ろうと思っていた。

7月29日は実は僕の24回目の誕生日だった。この年、僕の誕生日を祝ってくれたのは世界中でマルタ一人だった。

「誕生日おめでとう! アヤト、キスして」

全然知らなかったのだけど、アルゼンチンでは誕生日の人は周りの人にキスをするという習慣があるらしい。(※2)
うーん、こんなに優しくて可愛い女の子と一緒にいられるんやったらウルトラなんか行かんでもええかな…いや、間に合うんやったら帰りたいしなあ…
心はマルタとウルトラの2択で揺れていた。

「ところで明日は逢える?」
「もちろん。明日はソーナ・フランカに連れて行ってあげるよ。」(※3)

自分がどんな状況下にあってもデートの約束だけは確実に取り付ける。僕は世界の果てに行っても相変わらずだった。

この数日後、幸か不幸か、僕は日本に帰ることができた。
プンタ・アレーナス → サンティアゴ → マイアミ → ロサンゼルス → ソウル → 大阪 と、この間の出来事はまるで神様が僕を導いてくれたような感じがした。(※4)

1989年8月6日午後8時。冬の国から帰ってきた僕にとって、伊丹の夜は暑すぎた。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

これがあの『クイズは創造力≪理論篇≫』のオリジナル原稿の書き出しである。

いやー、四半世紀以上ぶりに読んでみたけど、アイタタタタって感じだなー(笑)

実は『クイズは創造力』はもともと「○○篇」というシリーズものではなかった。なぜならば内容をすべて1冊にまとめる予定だったからだ。
情報センター出版局は別にクイズの本を出したかったわけではなく、あの当時、頑張っている(関西の)若者が書いた本、というシリーズの一環で僕の本を出したかったのだ。ちなみに僕の直前にこのシリーズで本を出版されたのは三代目魚武濱田成夫さんだった。

しかしながらもともと僕は高校時代から、いつか必ずクイズの本を出版してみせる、と心に決めていたこともあって、このチャンスにものすごく中身の濃いものを書いてやろうと思っていた。その結果、「書きすぎた」のである(笑)

「辞書並みに分厚くする」とか、「1ページを上下2段にする」などの案が出されたが、最終的には「2冊出そう」ということになった。
理論篇よりもこの後の問題集篇の方が絶対に売れますから、という僕の主張も少しは影響を与えたのかも知れない。実際に売れ行きは問題集篇の方が高かった。

しかしながら理論篇の段階ですでに書きすぎていた。
中学生に届けたかったのでどうしても価格は1000円未満にしたかった。だとすればページ数はこれぐらい、ということになり、結果内容を大幅にカットせざるを得なかった。

今回、「28年前日記」を書くにあたって、当時実際につけていた日記を転載しようかなと最初は思った。しかしながら、四半世紀ぶりに読んでみたその内容は、世に出せるはずがないものだった(笑)

だから『創造力』のオリジナル原稿を掲載、と書いたのだが、しかしこれもよく読んだらこっ恥ずかしい。でも意外と楽しみにしている人が多いので、それはちゃんと書いてみようと思う。ただし、そうであっても今となっては発表できない部分もあるので、掲載可能の範囲になってしまうが。

そして、注釈代わりとして本編で略されている部分や、周辺ネタ、日記に記されていた事実の部分などを、今読んでもらっているこの部分のように、途中や後ろに書いてみたいと思う。本文における「(※1)」「(※2)」などの部分である。今回はこんな感じ。

※1心配そうに僕を見つめてマルタは言った

これ、日本語で言ったのではない。当たり前か。そしてスペイン語でもない。まだまだそんなに話せなかった頃だから。つまり2人の会話はほとんど英語で、そこにスペイン語と日本語を混ぜる、というものだった。幕府と黒船の乗組員的展開だ。

※2アルゼンチンでは誕生日の人は周りの人にキスをするという習慣があるらしい。

これには驚いた。「キスして」って言うから「何で?」って無粋な返しをしたんだけど(ひどいなー)、「習慣なの」って言ってた。彼女が言ったスペイン語「costumbre」(習慣)という単語はそこで憶えた。
でもこの「アルゼンチンの習慣」ってホンマかいな。ネットで調べても出てこんぞ(笑)

※3明日はソーナ・フランカに連れて行ってあげるよ。

ソーナ・フランカは当時、唯一ともいえるプンタ・アレーナスのデートスポット。大規模なショッピングモールで免税店だった。でも最近ネットで探してみたけど見つからなかった。もうなくなってるみたい。28年前のことだもんなー。
ちなみにここのカフェで僕の友人なら誰でも知ってる「長戸勇人の鼻からストローが出る」という芸をマルタにして爆笑を取ったのはイタい過去だ。

※4プンタ・アレーナス → サンティアゴ → マイアミ → ロサンゼルス → ソウル → 大阪 と、この間の出来事はまるで神様が僕を導いてくれたような感じがした。

ここの話だけでコラムが1つ書けるなあ。
実はマルタとのデートの後、僕はプンタ・アレーナスの全ての旅行代理店に行ったのだが結局のところチケットは押さえられなかったのだった。
それで仕方なく夜に長距離バス乗り場に行き、せめてサンティアゴまでの席はないかと探したんだけどやはりこれもダメだった。「何でもっと早く来ないんだ」ってカウンター越しにバス屋の兄ちゃんに怒られて(今から考えると何で怒られなイカンの?)、仕方なく「明日また来ます」とだけ言ってホテルに戻ったのだった。

奇跡はここから始まった。
翌日、ソーナ・フランカに行った後にダメモトでそのバス屋に行ったところ、
「おお来た来た。待ってたよ。サンティアゴ行きの席、さっき1つだけキャンセルが出たよ。」とバス屋の兄ちゃんは言ってくれた。3年後に能勢一幸が見せるビッグスマイルのようだった。

バスの出発は8月1日の朝だった。これでとりあえずサンティアゴまで向かうことになった。
これが1日近い長旅となるのだけど、しかしながらこの時の経験が後のウルトラツアーで、オーストラリアの航空会社のストライキが原因で乗ることになった「10数時間のバス移動」にストレスなく対処できた基礎となった。人生何がプラスになるかわからない。

サンティアゴに着いてから、改めて旅行代理店を回る。
とにかくアメリカのロサンゼルスに行けば何とかなるだろうということでLA行きのチケットを探すものの、何故か全部売り切れていた。
代理店にはすべて「明日また来ます」と言って、僕は夜はサンティアゴの定宿だった「ペンシオン五月女」に戻り、そこで日本人バックパッカーたちと麻雀を楽しんだ。
そういや、Facebookを始めたばっかりのとき、そのメンバーの1人からいきなり連絡があったなあ。懐かしかった。おそるべしFacebook。

翌日、サンティアゴの旅行代理店を再び回ったところ、あるオフィスでプンタ・アレーナスのバス屋のように僕の顔を見るや喜んで声を掛けてくれる女性がいた。
「待ってたのよ。さっき1つ空いたわ。」
ラッキー! とりあえずこれでLAまでは行けるのだ。
出発は8月3日だった。これでマイアミ経由でLAまで行けることが確定した。
代理店の女の子が興奮していたのは、「サンティアゴ→マイアミ」「マイアミ→LA」の両方のチケットのキャンセルが同時に出たからなのだ。
「絶対にいいことあるわよー」って何回も言われた。

LAからは日本で買っていた大韓航空のチケットがある。
やはり座席はなかったが、でももうこの空港(LAX=1ヵ月半後に恒川と正木が涙に暮れるあの空港)でのキャンセル待ちは行きのエクアドル行きのときと同じで慣れたもの。カフェで数時間粘って、とうとう手に入れた。

そして日本に到着したのだった。

そりゃあね、これだけ奇跡が続くと、何か大きなものが僕を勝たせようとしている、って勘違いするわな(笑)
8月6日に日本に到着。12日に都内に入り、翌日がドーム予選。必死こいて南米から帰ってきて、今度は必死こいてニューヨークへ向かう旅をするわけだ。

そして15日にA型肝炎が発覚して急遽入院(事実上の国内第2次予選(笑))。
31日にまだ完全に治っていないかも知れない状態で退院して、その日のうちに京都を出発した。
そしてウルトラツアーでは「最も長い一日」と表現される、ジャンケンの朝を迎える。

この日は早朝にジャンケンをやって、そのまま機内ペーパーをやって、グアムの空港でブーブーゲートをやるわけだから3つの収録があるのだ。しかもスタッフは翌日のドロンコクイズの準備などもあり、ヘトヘトとなる1日なのである。

その日は『第13回』では9月2日だった。

というわけで、この続きは9月2日の夜に。


これが1989年7月29日のマルタとの写真。
チリの最南端、プンタ・アレーナスにある公園で撮ったもの。
バックにあるのはマゼランの像がある記念碑。
僕のFacebookのアカウントに使われているあの像である。
マゼランの下には原住民の像もあり、その足を触ると
夢が叶うとか安全に航海ができるとか再びこの街を
訪れることができるとかの迷信がある。
なのでその足の部分だけはピカピカになっていたりする。
僕も当然そこを触ってきた。そして2ヵ月後に夢は叶い、
3年後には再びこの街を訪れることができたのだった。